『太田に光を与えた先人たち』(太田市教育員会発行 2003年・平成15年)には新田義貞、呑龍上人、大谷休泊、中島知久平など50余人の先人たちの中の一人として須永好も紹介されている。
変化の時代には先人に学ぶ
発刊に寄せて、正田喜久教育長が「時代が大きく変化するとき、人間は進路を見失い、疑心暗鬼になります。しかしそんなとき、その不安を解消してくれるのが、歴史の持つ羅針盤としての役割です。過去の太田の先人たちが危機や困難にどう対処したかを知れば、いたずらに不安を抱く必要もなくなるわけです。先人が何をもとめ、どう行動したかを知ることにより我々の進むべき方向を明確に見定めることができるものなのです」と述べていますが、まったくその通りと思います。
日本初の“無産村”強戸に注目
昨年の3.11原発大震災の後、混迷する日本社会のなかで、政権交代は果したもののその内容たるや、これまでと変わらず「政治3流」の域からは一歩も出ず保守、革新の違いも不明確で色あせてしまっている。私が須永好に、再び関心を持ったのも日本で初めて小作農・貧困大衆の主導による進歩的な無産(革新)自治体(村)を実現したこと、それも平和的な合法手段を積み重ねることによって築いた。そんな先駆的な指導者の精神に、政党政治が危ぶまれている今こそ学習し直したいと思ったからに他なりません。
開墾開拓し失業者を救済
小学高学年から中3対象に作られた副読本『太田に光を与えた先人たち』では、須永好は「農民運動のリーダー 地蔵様にまつられる」と題してその生い立ち、業績が記述されている。戦時中、強戸村の隣り生品(いくしな)村小金井には、中島製作所で造られた戦闘機の飛行テストを行う陸軍の生品飛行場があった。終戦になり陸軍の将校一団が須永宅を訪れ、飛行場跡をソ連の集団農場のように農民の一大理想郷にしたらどうかと持ちかけてきた。戦争から帰ってきた復員兵や失業者であふれ返っていたご時世だっただけに、須永好はさっそく「新田開拓農民組合」を結成。まずは190人の入植者の開墾作業から着手する。彼にとっては戦後初の大仕事となる。さすが組合づくりの名人須永好は、農民組合をフルに活用し農林省や群馬県と交渉。人々の住宅問題、資材入手などの課題にも率先して当たり、あらゆる悩みごとの相談相手となって入植者たちを勇気づけた。そんな須永好は人々から父のように慕われたといいます。全開拓地は375ヘクタール(378町歩)に及ぶ。須永好が亡くなった時は皆が深く悲しみ、「須永さんはお地蔵さんのような人だったから地蔵様をつくろう」ということになった。(つづく)
【写真】須永地蔵尊(太田市新田市野倉町・ヨシカワ新田工場西)
【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織しわが国初の革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議3期(戦前戦後通算)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます