犠牲者を出さない平和戦術 須永好(6)今では「小作人」は死語「須永好という偉い人が昔、小作農の団結で強戸(ごうど)村に小作人組合をつくり村民を幸せにしたんだよ・・」と話しても今の若い世代には、そもそも「小作農」「小...
上記は1年前の「ポポロの広場」です。ご参考にしてください。
きょうの本文は以下です。
『須永好と強戸農民運動(3)』
西の山上、東の須永
須永好は単なる小作料軽減運動だけでは小作人にもたらす効果は少ないと思い、この際強力な小作人組合を設立して小作人の地位を経済的に、政治的に向上させようと考えた。大正10年(1921年)10月31日、実行委員が、柳保太郎方に情報を持ち寄った。柳保太郎は前回、警察の手入れと早合点して臭くて冷たい風呂に逃げ込んだ「太郎やん」のことかもしれない。須永好の分担は「菅塩」だった。この夜の会合が後に「西の山上(注)、東の須永」と日本農民運動の双璧と謳われた基因がこの夜にあるとは、本人はじめ列席した人々の知る由もなかったであろう。
組合結成の総会は役場会議室で
須永好は、強戸村役場に増田村長を訪問した。
「11月5日午後1時から強戸村小作人組合をつくりたいので役場の会議室をお借りしたい」それに対して村長は少なからず面喰った形だった。
「・・・・・・」村長は黙って天井の方ばかり見つめていた。
「別にお騒がせするのでもないし、悪い企みをするのでもないのだから、なおさら役場をお借りしたいのです」と須永は柔らかく申し出た。
須永好と言えばまじめな若者で、「優良青年」として表彰もされ、軍隊に行っても模範となり上等兵となって除隊し、その後も熱心に農業に励み村でも屈指の篤農家の聞こえが高かった。増田村長も自分の耳を疑った様子だった。
「小作人組合だねぇ」と村長は初めて口を開いた。
「えー そうです。今年のこの不作で小作人は心配しています」と須永がわるびれた風は少しもなく言うので村長は心ならずも承知したのだった。
堂々、正攻法の“須永流”
村役場を使用するということは、小作人組合というものを一般化するためだった。それまで小作人たちは寄り合いをするにしても見張りをつけて警戒していたのに白昼公然と、しかも村の真ん中の役場で、駐在所の隣の役場で、村会議員が利用する会議室で会合できることに小作人たちは驚いた。堂々と、隠れることなく公然と運動を進めていく“須永好主義”の民主化運動が開始された。(つづく) (「かぶらはん」2007年592号)
(注)「西の山上」とは山上武雄のこと。岡山生まれ。大正11年(1922年)に日本農民組合(日農)の創立に参加。小作料永久3割減要求運動を指導。妻、喜美恵もキリスト教社会運動家。助産師としてハンセン病病院、各種地域活動に従事。
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