『未完の昭和史』(須永徹著)で涙が止まらない場面があった。
時代は1932年(昭和7)、前年の柳条湖鉄道爆破事件を契機に満州事変に突入し次第に軍部ファッショが強くなりだしたころ。強戸村自治会(地主側)が村当局(小作側)の課税措置に反対して決起。地主が小作農に対して行う常とう手段「立毛差し押さえ」(生育中の稲を差し押さえること)を、ここ強戸村では、逆に小作農が主導権を握った村当局が、税金滞納の形で抵抗する有産階級の地主に向けた。小作人と違い稲を押さえるのではなく、地主の家の物品を徴収した。やがて地主側は行政訴訟を起こした。世の流れもあって村当局(小作側)は敗訴し、次第に地主側の猛反撃が始まっていった。
脱退する小作人たちの涙
地主からの土地取り上げ告知書や裁判所からの呼び出し状を持って組合長の須永好を訪ねる小作人が目立って多くなってきた。中には農民組合脱退を強要されている小作人もかなりあった。須永好は、個々の事情を量り争っても勝ち目のない場合は、地主にいうべき釈明の言葉まで教えて帰した。
「農民組合を脱退すれば土地はそのまま貸しておくというなら遠慮なく脱退して安心しなさい。組合の精神は小作人が幸福になればそれでいいのだよ。いいからじょうずに脱退して、土地を確保してくれよ」
小作人たちは涙ぐんで須永組合長の慈悲に感謝し、ついには泣きだして12年間の指導に別れを告げ去っていった。(『未完の昭和史』P168)
須永好と大石内蔵助
「忠臣蔵」の赤穂藩家老、大石内蔵助を思い出す。主君の敵討ちを達成するまでの過程では、同じ志をもつものであっても次々に脱盟し、最後は、わずか47人(四十七士)までになってしまった。しかしその間、家庭の事情等の理由で離脱者は数多く出たものの敵に内通するような裏切りは一切無かった。それだからこそ討ち入りという大願が成功したといえる。組合長・須永好も家老・大石内蔵助もともに去るものを追わない。むしろ去る者に理解さえ示し励ました。
戦後、強戸村(太田)のみならず東毛地域で須永好が絶大の支持を得たのもこうした彼の「慈悲」的な指導力を民衆が忘れていなかったということではないだろうか。
【写真】須永好菩提寺「永昌寺」(太田市成塚951)の碑の前で。
【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議2期。
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