テレビのニュースを観ていたら、もう「三社祭」なんですね。季節の移り変わりの早さにはびっくりしてしまいます。
画像は、昔今戸焼で作られていた「土神輿」を再現してみたもの。焼き物で神輿を作るという発想がユニークだと思います。
手本は毎回ご登場いただいている、今戸焼の土人形の最後の作者であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)作のものです。
都内の近世遺跡からの色のとれてしまった出土品にも含まれていることがあり、大小さまざまな形の神輿が作られていたことがわかります。
尾張屋春吉翁の作は、担ぎの棒が挿し込まれているという例を見たことがないんですが、お人形の吉徳さんに伝わっている天保年間の人形玩具の配色手本帳を見ますと、春吉翁の作品の配色と似ていますが、その上担ぎ棒も挿しこまれていて、棒の配色も指定されているのです。棒の上の面は緑青で、側面はたいしゃ色です。それとおりに塗って本体に挿しこみました。
今戸焼の土神輿は三社祭だけに限らず、江戸市中、近辺あちらこちらのお祭りで子供向けに売られた際物玩具であったと思います。これをぶつけ合わせたり、誤って落としてしまえばすぐに割れたり欠けたりしてしまうのが、今戸焼の儚さですが、それを惜しげもなく買い求めて遊んでいた江戸の子供たちは淡泊で潔いところがあったのかもしれません。
お神輿の掛け声はやっぱり「わっしょい」でしょうね。
ちなみに招き猫の一番古い作例と言われている丸〆猫ですが、売られていたのは、ここ三社様(浅草神社、旧浅草権現、三社権現)の鳥居横らしいです。今から十数年前、TV番組で私の再現した丸〆猫を採り上げてくださり、その1シーンとして、私が三社様の拝殿で拙作の丸〆猫を奉納するというのがありました。当時、三社様のご神職様ともお話しさせていただきましたが、ご存じないようで、その後も丸〆猫についての縁起について取り立ててPRされることもないようなので、もったいないというか欲がないんだな~と思っています。文献にも錦絵にも残っているものなのですけれど。まあ、三社様にとっては招き猫ひとつの伝説もそれほど重要ではないんでしょうね。なにしろ浅草寺創建にまつわる由緒あるお社ですし、本殿拝殿も震災、戦災から類焼を免れた重要文化財で、また江戸三大祭りのひとつを執り行われる浅草の要なのですから。