有坂与太郎著「おもちゃばなし・今戸人形」(昭和5年刊)に掲載の第24図。解説に「女異人 今戸人形中、異国人を描けるもの他になし、出色のものと云ふべし。」「丸〆猫 招き猫の背面に丸〆の文字を現す、丸〆は乃ち金〆めにて、嘉永年中、淺草三社權現内の露店にて鬻がれたるなり、最も行はれしと云ふ。」とあります。これら座姿と臥姿の2体の丸〆猫は、丸〆猫③の「おしゃぶり・東京篇」の記事にもあるとおり、今戸の人形師である尾張屋5代目兼吉さんの創作と言われている型で、6代目春吉翁もこの型で作っていました。春吉翁の丸〆猫も配色がいくとおりか異なっているものを確認していますが、絵具は膠で溶いて使うので、その都度湯煎にかけなければならず、そのタイミングや効率の上で、配色の違いがあるのではないかと考えられます。
さて、ここまででご覧いただいた丸〆猫型の土人形の種類は3種です。尾張屋さんは他に「丸〆小判猫」という人形も作っていらっしゃいました。これを加えて4種確認できた訳ですが、ここで疑問があります。「おしゃぶり」でも引用されている「武江年表・嘉永5年の項」のお婆さんの話の中には三社様の脇で売り出されて大流行した今戸焼の猫に丸〆の印があるとは述べられていません。 ですから嘉永5年の猫=丸〆猫であるという確証がありません。唯一の証言が昭和17年か18年の「鯛車」という雑誌の記事「今戸人形を語る」の中で「三社様の前には丸〆の招き猫の店があったのでした。と尾張屋春吉翁が語っておられます。
私は伝世品の人形の他にも都内の近世遺跡からの出土の人形を参考にしたいとかねがね遺跡報告書を閲覧したり、出土人形にお詳しい日本人形玩具学会のAさんに出土状況をうかがっていたのですが、大流行したはずの丸〆猫が出土されたということを確認できず、不思議に思っていました。特に浅草寺六角堂の修復移設の際、大量の裃雛(今戸のあねさま)が出土しているのに丸〆猫は出てこなかったこと、また、二天門外の消防署の跡の遺跡からも出てこなかったというのが謎に思えていました。
丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。
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