東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸焼(51)紅鉢型雲華土風炉(作根弁次郎 作)

2013-06-14 10:13:07 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010224 この土風炉の作者「作根弁次郎」という人は陶磁関係の文献で「嘉永年間の今戸焼の上工、、」という表記がされています。旧・今戸八幡の狛犬の基台に刻まれている今戸焼の陶工の名前には含まれておらず、狛犬が再建された時よりも後の時代に出てきた人なのでしょうか。

  私自身が直接お話を聞くことのできた今戸焼の関係者、古くからの今戸町の古老のお話の中で、「猫屋」という屋号が必ずといってよいほど出てきたものです。例えば葛飾お花茶屋にいらした白井本家・善次郎家の白井和夫さんのお話、今から20数年前に今戸町内で燃料屋を営んでいらしたお爺さんの話、そしてたびたびこのブログにご登場いただいている最後の生粋の今戸焼の人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお孫さんである武佑さん(昨年末にご他界されました。謹んでお悔やみ申し上げます。)のお話にも「猫屋」のことを聞きました。

 この「猫屋」という屋号は作根弁次郎さんが作ったという猫脚のついた炉台が大変な評判となったからであるようなことが有坂与太郎の著作に記されています。その話を知るまでは、招き猫などの猫の土人形を手がけた人がいたからなのだろうかと思っていました。

 またこの「作根弁次郎」さんこそは、尾張屋・金澤春吉翁の実父なのだそうです。そのため金沢家と作根家とは親戚関係にあり、春吉翁がご生前ただひとりの弟子を仕込んだ、というのは作根家の通称「清さん」と呼ばれていた作根清二郎という人で、残念ながら夭折されたそうです。

 画像の土風炉作者「作根弁次郎」さんの話に戻ると、この人は例えば忠臣蔵で有名な播州赤穂の焼き物に大きな影響を与えたとかで、赤穂焼という焼き物には雲華焼風な仕上げの技術が伝わっているのだそうです。

 かねてから気になっていること、、、。春吉翁は作根家に生まれ、尾張屋・金澤家の養子に入り、家業の土人形で有名な人ですが、いくつ頃に金澤家に入られたのか、、?翁の語った話が記録されていますが、年少の頃より煙草が好きで、「吸いたければ働け」と養父兼吉翁に言われて仕事に励んだということです。十代の頃の話でしょうか。土人形製作が中心であったにせよ、春吉翁には実父の弁次郎さんからろくろや焼成などの「猫屋」さんの技術が伝わっていたのかどうか、、?春吉翁の仕事風景の画像が残っていますが、中には手回しろくろの上に人形を乗せて仕事しているものや、窯詰めのところで、小さな人形を入れる「サヤ」や重しとして伏せて乗せてある「焙烙」のようなものが見えます。これらは春吉翁が自分でこしらえたものなのかどうか気になるところです。

 春吉翁の娘さんである花さんの懐古談によれば、バーナードリーチは本所に窯を築いた折には、リーチの師匠である「浦野繁吉」(浦野乾哉)と春吉翁が親戚であった関係からリーチのために焼き物のひととおりを手伝ったということなので、技術としては人形や箱庭細工以外の今戸の焼き物ができる人であったのでしょう。

 さて「猫屋」作根家のその後の消息についてどうなったのかということも知りたいところですが、昭和はじめの「今戸焼共同組合」による刷物には「猫屋」の名前がありますが、昭和8年の「郷土風景」という雑誌の記事に記されている当時の今戸町内にある窯の列記には含まれてはいません。春吉翁のお孫さんの武佑さんからお聞きした話では第二次大戦の末期、武佑さんは作根家に疎開していたそうで、そこは群馬県の太田市であったといいます。その後についてはご存知ないそうですが、どこかで、関西の方に移ったとかいう話を読んだかしたように憶えているのですが実際のところはわかりません。

 画像の土風炉の底には「作根弁次郎」という陶印が押されています。


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8 コメント

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作根弁次郎について (スマホライターM)
2017-03-06 15:47:32
作根乾三作品を探しています。
「幕末の鬼才 三浦乾也」益井邦夫著のP71-72名工乾三について次の様に書かれている。

井田吉六や乾也と共に、藐庵のもとに入門した作根弁次郎は吉六の直弟子であったが、元来は今戸焼の陶工である。その当時から土風呂や煎茶用涼炉の妙工として知られていた。弁次郎の名がはじめて登場するのは「本朝陶器改訂」の「江戸今戸焼」の項である。吉六の奨めもあって藐庵の門に入り、遂には乾山流の陶法を修めて「乾三」の号を送られた。同書の解説はそこまで触れられていない。
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作根弁次郎について (スマホライターM)
2017-03-06 15:51:55
続き
弁次郎は乾也よりも年上といわれるが、年齢については不詳である。吉六の没後は乾也のそばにあって独自の作風を築いていったが、明治期になって乾也が小田原藩大住郡曽屋村字十日市場(神奈川県秦野市曽屋)に開いた尚古園館に明治三年(1870)から7年ほど従事するなど、焼き物一筋に生きた人物である。
 弁次郎のことについて加藤唐九郎の「原色陶器大辞典」の中で「嘉永年間(1848~54)の人」と記しているが、実際はこのように明治期まで活躍した陶工である。
 のちのことになるが、弁次郎の子の作根清二郎の次女イセは乾也の弟子となる浦野繁吉と明治14年(1881)に結婚している。しかしイセは24年に28歳で病没した。残った浦野は二年後に写真の開祖である下岡蓮杖の娘ヨシと再婚している。そして33年(1900)に一家をあげて尾形圭助の養子になった。圭助は尾形乾山の次男新七の流れを汲む人物とされている。一説に乾山は独身とあり、この系譜にはあまり信憑性がない。しかし一応の系譜として次のようなのがある。
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三浦乾也と梶山良助 (スマホライターM)
2017-03-06 15:54:19
http://blogs.yahoo.co.jp/mitake060114/64491591.html#64491607
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御礼 (スマホリターM)
2017-04-03 23:23:31
先月は、ご自宅まで出かけて、お会い頂きありがとうございました。

作根弁次郎作土風炉は、見れませんでしたが三浦乾也作品も素晴らしいかったです。
色々と良い作品をお持ちで驚きました。

お時間がある時に、作根弁次郎の銘の写真を掲載して頂けると助かります。

先日、墨田区八広にある本屋さんの鳥井さんにお会いして来ました。明治3年、日本で耐火煉瓦を作った方の子孫です。

そこに「陶技辨司」と言う銘の陶像があり、これが作根弁次郎作だとすみだ地域学情報に出ていました。

こんな話を聞いたことがございますか?
また、作品を見せて頂きたいです。
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Unknown (いまどき)
2017-04-05 22:35:25
スマホライターさま
たくさんのコメントご教示いただきありがとうございました。不勉強ながらご指摘の作行の絵皿等、浦野乾哉の作として図録等で観る機会があったので、そうのように思っていました。猫屋さんの作というのは知りませんでした。「辨司」というのは「作根弁次郎」とは別人だと思います。「辨司」は「戸澤辨司」という陶工というか人形作者でもありまして、時代的には「内国産業博覧会」の第一回にも出品している人で、寺島に当時住まっていたようで、博覧会には楽焼の象嵌屏風のようなものを出品したと記されていますが、「弁司」の窯印のある人形が現存します。うちには「恵比寿大黒」と唐金製?のような「蝦蟇仙人」の姿があります。おそらくその原型作りに携わっていたのではないかと思います。
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すみだ地域学情報 2008(平成20)年8月号 (スマホライターM)
2017-04-07 08:47:24
またご連絡頂き、ありがとうございます。驚くことばかりです。

すみだ地域学情報 2008(平成20)年8月号に書かれた作根弁次郎の内容を確認していますが、分かりませんでした。

https://www.city.sumida.lg.jp/kurashi/syougai_gakusyuu/chikigaku_we/we.files/We5.pdf

戸澤辨司の作品、銘があれば、是非拝見したいです。写真をアップして頂けないでしょうか?

どの様な経歴なのか、興味があります。
一方、作根弁次郎の謎が、深まりました。

宜しくお願いします。
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金沢春吉氏のご親戚について (スマホライターM)
2017-10-09 14:36:17
ご無沙汰しています。最近金沢春吉氏のご親戚の方にお会いして、受け継がれて来た陶器に六代尾形乾山の作品と掛け軸の中に乾也作陶軸も発見しました。

またお会いしてお話がしたいです。乾也作品の下書き図録がほぼ完成しましたので見て頂きたいです。
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Unknown (いまどき)
2017-10-10 17:07:20
スマホライターさま
先ごろ、尾張屋さんからご連絡いただき、仰っていられる内容のお話はお聞きしていました。春吉翁作をはじめとする往時の今戸焼の土人形に関しては大変興味がありますが、乾也、乾哉等作家の作品については何の見識も持ち合わせていないので、馬の耳に念仏だと思います、、、、。
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