東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸焼(21)  河童の火入れ(尾張屋春吉翁 作)

2010-05-09 12:49:04 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010382 最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)の作です。素焼きの生地に胡粉で下塗りし、染料や胡粉で着色して仕上げたもの。今戸の土人形であると同時に実用品としての性格もあるので、今戸人形というより今戸焼として採り上げます。この火入れ、前の持ち主が大切にしていたようで、一度割れてしまったものを丁寧に継いであります。

「火入れ」は、背中に口を開け、中に灰を敷いた上に火種を置き、煙草に火をつけたり、また手焙りとして、手をかざしたりして暖をとることもできます。

今戸焼にはろくろで挽いて成形し、口を切あけたものもあるのですが、このように前後2枚の型を合わせて成形する人形型のが有名です。

種類としては、尾張屋さんはおかめ型、招き猫型も手掛けていたようですし、近世遺跡からは狸や烏帽子を被った猿なども出土しています。特に有名なのが、この河童とおかめ、招き猫の型ではないでしょうか?

古い錦絵に描かれていたり、また歌舞伎の世話物の場面で神社仏閣の傍らにある茶店の赤い毛氈を掛けた床几(ベンチ)の上に置いてあることが多いです。茶店に限らず、店先などでちょっと一服、なんてところで親しまれていたものではないでしょうか?

2007_0101_000000p1010381 尾張屋さんでは、このほか河童の土人形も何種類か手掛けていらっしゃいました。

尾張屋さんの河童の彩色は独特で、緑というよりセルリアンブルーのような色を濃くしたような染料?で着色されています。頭の皿も塗り分けてあり、目がいきいきとしています。

向かって右側面に「尾張屋」の窯印があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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尾張屋春吉翁 今戸焼土人形作り風景

2010-05-08 13:49:47 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010259 有坂与太郎著「おもちゃ葉奈誌 今戸人形」(昭和5年)に掲載されている写真です。この写真から当時の今戸焼や今戸人形についての様子がいろいろと伺うことができます。

手前の焚き口のところにいらっしゃるのが春吉翁。また後ろにいらっしゃるのが春吉翁の妻女のつるさんでいらっしゃいます。窯の形は小型ではありますが、今戸焼に使われていたという典型的な形のもの。後ろの炉部分には天井がなく、中に素焼きする箱庭細工や土人形の生地を詰め込んでから上から筵なんかで蔽いをして水で湿らせて焼けないようにしたんでしょうか。土台は耐熱煉瓦を敷いたり、炉内も煉瓦を積み上げ、周りを鋤を入れた荒木田土などを塗り重ねてこのように形作ってあるのでしょうね。

春吉翁の左に見える笊には箱庭細工らしきものや、小型の人形が見えます。焚き口の上には割型が見えます。これは大黒様でしょうね。春吉翁作のこんなに大きな大黒様の実物はまだ見たことがありません。しかし恵比寿大黒の人形は今戸焼の土人形の主力製品のひとつだったようで、お酉さまの市をはじめ歳の市では必ずさまざまな形のものが売り出されていたみたいです。

焚き口には燃料となる薪の他に、焚きつけに使う鉋くずのようなものも見えます。後ろに樽のようなものが見えるのは、中身は何なんでしょうか?水なのか、粘土の室なのか?P1010272

春吉翁には「清さん」というお弟子さんがひとりいらっしゃって、仕込んでいたらしいのですが、夭折されてしまい、その後は弟子はとらなかったそうです。

製作には春吉翁ご本人と娘の花さん、それからご近所の女性が手伝いに通っていたということです。

今から20年前まではまだ今戸には金澤家のお宅がありましたが、何時の間にかアパートになってしまいました。

一枚目の画像の窯があったという場所は現在は駐車場になっています。私にとっては聖地みたいなところ。浅草に所用で出かけるついでには、足をのばして、駐車場であってもお参りに行っています。

 

 

 

 

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最後の今戸人形師 尾張屋春吉翁

2010-05-08 06:46:19 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010366 最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁については、お人形の吉徳先代・山田徳兵衛さんによる「人形百話」の中の話をお許しを得て当ブログで引用させていただきました。

春吉翁は明治元年の生まれ、先代兼吉さんのもとで今戸の土人形作りを修業され、作っていらっしゃったが、明治の終わりに新しい玩具によって今戸人形の需要が減り、土人形作りを中断。箱庭細工の製作に転じていらっしゃったのでしたが、関東大震災で被災。その後今戸の街の復興の際、人形作りを中断された折に敷地内に埋めておいた型が再び掘りだされたのを機会に、多くの江戸趣味、郷土玩具趣味の人々の需めに応じて、往時のやり方で今戸人形を再興されたのでした。昭和19年に他界されました。

尾張屋・金澤家は今戸神社(旧今戸八幡)に残る云型の狛犬基壇に刻まれている「金澤喜太郎」を初代とする今戸焼の旧家のひとつで、春吉翁で6代を数えました。

その人形たちは流石に生粋の今戸人形師だけに、小さな人形であっても手慣れた面描、明治時代まで伝わっていた今戸人形の配色を正しく伝えたものであることが、現存の作品からわかります。最後の今戸人形師であると同時に最後の名工でした。

春吉翁のお人柄や製作風景を記録したという映像があった、という話が伝わっていますが、その後フィルムがどうなってしまったのか、消息がわかりません。

この葉書はその映画の宣伝のものかと思われ、「高野洋一氏作」「昭和12年第5回コンテスト入賞」とあります。差出人は人形玩具の研究家であった有坂与太郎氏。

春吉翁の土人形作りの様子を動く姿で見てみたいものです。今もどこかでフィルムが残っていることを祈り、何時の日か私たちの前で上映されることを願ってやみません。

 

 

 

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赤羽駅の駅弁

2010-05-04 20:24:21 | ああ懐かしき、、

2007_0101_000000p1010364 今でこそ、赤羽って「住んでみたい街」の上位にランクされているそうですが、、。一住民としては、悪くない気分ではありますが、昔だったら「あの闇市の?」「ピンクサロンで有名な?」といった形容がされていたように思いますし、「赤羽って埼玉じゃなかったの?」と言われていたこともありました。

「住みたい街」である理由のひとつは交通の利便性でしょう。新宿、渋谷、お台場まで埼京線りんかい線で一本。横浜、鎌倉、湘南へも湘南新宿ラインで直通電車が停まります。上野、東京、横浜までも京浜東北線で一本。上野まで急ぎだったら高崎線東北線でふた駅。JR線とは直結していませんが、地下鉄南北線も走っています。確かに便利。駅も新しくなって便利だけれど、、、、。

押し入れの中を探しものしていたら出てきた駅弁の包み紙。赤羽駅にも駅弁は存在したんです 。

あの頃、、、昭和40年代後半から50年代前半。京浜東北線もともと高架といったらよいのか、高いところを走っていてホーム(1番線、2番線)も高かった。高崎線東北線(3番線4番線)ホームは地上。赤羽線は5番ホームだったか定かではないけれど、地上にあって池袋と折り返し運転をしていた。

3番4番ホームには急行電車もよく停まったし、「急行 ××1号 ××行き ×号車」といった乗車口の表示板がぶる下がっていた。 機関車が牽引する茶色や紺色の客車の普通列車の中には「福島行き」なんてのもあったような気がする。 こういうホームだから上野駅には及ばないけれど、啄木の「ふるさとの訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聞きに行く」といった風情は多少はあったと思う。 

「御寿司」と書かれた包み紙。中身はただの助六だったけど、れっきとした駅弁です。木箱に入れて、停車中の汽車の窓から売り歩くおじさんは見たことないけれど、駅弁を売るスタンドがありました。ホームに立ち食いそばのスタンドがあって、その臭いがなぜかローカルムードを高めていました。

赤羽に住んでいて、なんで駅弁なんか買うのか?とお思いの方もいらっしゃるでしょう。あの頃、小遣いがあんまりなかったから、どこかへ出かけることもできず、ホームで駅弁を買って通り過ぎる長距離列車を眺めながら旅情に浸っていたのです。

それにしても、赤羽の名所なのか「荒川鉄橋」というところが悲しいですね。あの頃の川は汚くて臭かった。「ばらばら事件」とか「マムシに噛まれて死んだ」とかいう話も聞きました。

あの頃、、、、ユーミンではないけれど「あの日に帰りたい」という気分です。あの歌がヒットしたのもあの頃くらいではなかったかな、、?2007_0101_000000p1010363


ところ変われば猫変わる

2010-05-04 18:44:08 | おともだち

2007_0101_000000p1010354 見舞いに袋(現・赤羽北)の病院へ。袋という地名は、昔は普通にあったのですが、赤羽北というとどこからどこまで、、、?ちょっとはっきりしない新町名ですね。

昔、幼稚園の頃のおぼろげな記憶では茅葺きの旧家もぽこぽこ残っていた。池袋、沼袋同様、水に関係あるみたいですね。2007_0101_000000p1010357 2007_0101_000000p1010353 水神様が保存されていて、解説板には、昔この辺りが新河岸川の船による通運が盛んで、船主たちが無事を願って建立したものであるが、また、上流の秩父地方に大雨が降ると、この辺りはいつも大水に悩まされていたから、後には水難よけの信仰で講もできた云々。

境内の空き缶回収ボックスの上で気持ちよさそうに昼寝していた猫さん。川風に当たって気持ちいいところをお邪魔してしまいごめんなさい。

不審なおじさんにちょっと身構えてしまった猫さんでしたが、また回収ボックスの上で寝ていました。この猫さん、ちょっと「ラスカル」に似ていませんか?


大発見!?

2010-05-04 18:28:07 | ご近所

2007_0101_000000p1010351 ゴールデンウィーク。以前の自分だったら、こんなにまとまった休みがあれば、大旅行とはいかなくてもどこか他所の土地に出かけていたもの。

最近は体が辛かったり、いろいろ身辺に辛いこともあって、出かけることに憶病になってきています。

せっかくの休みなので、普段できない夜更かしで、犬と一緒に夜中に隣の志茂を探検。

まだ通ったことのない道、路地、、、こんなに近くでまだ知らない世界。真っ暗なこともあって、入り組んだ道は迷路のよう。出逢ったたくさんの猫さん。そして辿り着いたのが、志茂熊野神社裏手の児童遊園でした。

見てください。この遊具。ちょっとタイムスリップしたかのようです。今日改めて行って写真に撮りました。町の中心だったら、とっくに撤去されていたかな?誰も遊んでいない。

これは時代の遺物として保存されるべきではないかと思いました。園内には他にもコンクリートのライオンなどまだあります。2007_0101_000000p1010352 私にとって大発見でした。


夏モードへ

2010-05-03 20:08:19 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010350_2 連休に入って、やっとこの時期らしい天気が戻りました。水も冷たくないし粘土いじりにちょうどいい季節です。水簸もできるし、土練りもできるようになりました。そしていよいよ久しぶりの成形です。

ここの部屋、本当に狭いので、絵具いじりと土いじりは同時進行できないんです。広いアトリエがあったらいいのに。

泥絵の具や胡粉、染料にはつなぎとして膠を使います。膠は夏にはすぐ腐ってしまいやすいのと気圧のせいなのか、同じ量を混ぜても緩くなって使いにくいです。だから涼しい秋から冬にかけての季節が色塗りに向いています。

反対に土には水がつきものなので、冷たい季節はできなくはないけれど辛い。また乾きも悪いので夏場に向いていると思います。

これから暑くなってくると完全に夏モードで土いじりに専念となります。まだこの狭い部屋は冬モードの物や道具があってこれから片づけなければなりません。

窓を開けっ放しにしているので、今日はたくさんの猫さんたちがやってきました。茶ぶちさんも久しぶりにあがってきました。2007_0101_000000p1010347_2


お気に入りの店④

2010-05-02 20:08:41 | おいしいもの

2007_0101_000000p1010342 志茂平和通りにある天ぷらの「天富士」。

赤羽には大手のチェーン店を含めてたくさんの天ぷら屋さんがあります。その全部を食べたわけではないんですが、ここの天ぷらはおいしい。とは言っても、店内で食事したことがまだありませんけれど。おかずとして買っていることがしばしば、。年越そばに乗せる天ぷらはいつもここで買いますし、そろそろ食べたくなったね、というと買いに行きます。

盛り合わせひと山のものもありますが、よく買うのは海老のかき揚げ、しそを巻いたイカ、あとキスですね。しかしどれもおししいです。

浅草、神田、日本橋などまで足をのばせば、それなりに格式のある天ぷら屋さんはありますし、それなりのお値段でしょう。

地元で食べられるおいしい天ぷら。あくまで主観ではありますが、赤羽の名店といってもよいのでは、と思います。


広重画 「浄るり町繁華の図」より③

2010-05-02 08:39:25 | 錦絵

2007_0101_000000p1010339 この錦絵シリーズは嘉永5年に出たもので丸〆猫屋が描かれていることで話題になり、当ブログでも丸〆猫⑩、⑪の記事で採り上げました。丸〆猫以外の絵についても、というご要望があったので、「浄るり町~」②と題して採り上げました。今回は③です。

右上、「菅原伝授手習鑑」「筆法伝授の段」。菅丞相(菅原道真)は秘伝の筆法を弟子である武部源蔵に伝授するが、公家の稀世がそれを妬み邪魔をするというあらすじ。この絵ではなぜか丞相様は道端で道具屋になっている。商売中でも本を離さないところがさすが学問の神様。どうして道具屋に見立ててあるのか、というと、並んでいる品物が、この浄瑠璃の他の場面にも出てくるものづくしになっているところ、芸が細かい。冠と笏と天神様の木像。これはあとの「道明寺の段」。木像が丞相様の身替りとなる。首桶は「寺子屋の段」で松王丸が首実験に使うもの。俎板、擦り鉢、叩き鐘に御膳は「佐太村賀の祝の段」で白太夫の賀の祝の料理に使ったり、桜丸の腹切りで叩く鐘。編み笠?だったら「車曳の段」で梅王、桜丸の兄弟が被る。さて道具を覗いている裃姿の男は武部源蔵。手にしている巻物は筆法伝授の巻物か?横で覗いているのが公家の稀世。

中段右側は椎の実売りで「義経千本桜」「木の実の段」とも「椎の実の段」とも。売っているのがならず者のいがみの権太。買っているのは平惟盛の御台、若葉の内侍。おんぶをしている前髪姿の男は主馬小金吾でおんぶされているのが惟盛の一子六代君。

下段右は「ひらがな盛衰記」の「神埼揚屋の段」無間の鐘ともいう。縁起物の小判だのを売っているお婆さんは梶原源太の母延寿。小判を眺めているのは源太の恋人の腰元千鳥で、勘当された源太のために身をを売って遊女梅ヶ枝となっている。源平合戦が起こり、勘当されて源太は出陣したいが、鎧は質に入っている。請け出すためには三百両が必要。試案の末に梅ヶ枝は無間の鐘の言い伝えを思い出し、廓の庭先の手水鉢を鐘に見立てて柄杓で打つ。すると小判が降ってくる。実は母延寿が客に化けて廓に入り、息子のために小判をまいたというお話。

左下は朝顔売りの様子。売っているのが宮城阿曾次郎という若い侍。買っているのが蛍狩りの夜、契りを交わした深雪。浄瑠璃外題は「生写朝顔日記」有名な演目なのにずっと出ていない。私もまだ観ていない。

中段左、赤っ面のお爺さんが切り子灯篭を売っていて、たくさんの子供が覗いている。一番右の子供が切り子灯篭を持っている。お爺さんは斎藤太郎左衛門で切り子灯篭を持っている子供はその孫の力若か。俗に「身替音頭」外題は「大塔宮曦鎧」という浄瑠璃で、太郎左衛門は孫の力若を音頭を踊る子供の中から探し出し、斬ってしまうという筋ですが、この演目も有名なのに久しく上演されていない。私も観たことがない。

上段左。見世物小屋に入ろうとしている稚児。木戸番の男に案内されている様子だが、この二人誰なのかといろいろ考えてみたが、ピンとこない。「梅若丸と人売りの忍ぶ惣太」なのかとも思ったが、鍵は上の絵看板にありますね。双六をしている女性二人。彼女たちの髪の毛が蛇のように逆立って争っている。この絵どこかで見たことがあるな、と記憶を巡らしてみると、昔長野駅の近くの刈萱堂というお寺で説教図として描かれているものの一場面。筑紫の国の加藤左衛門繁氏は仲良く暮らしていると思っていた御台と側室の障子に映った姿が、激しく嫉妬し合う様を見て出家して刈萱道心として高野山に入る。つまり「刈萱桑門筑紫いえづと」という浄瑠璃。そうするとこの稚児は刈萱道心の息子の石童丸。ただ、木戸番の男が誰の見立てなのかわかりません。この浄瑠璃も有名なのに久しく上演されていない。私も観たことがない。外題の「いえづと」という漢字、車偏に榮と書くのですが、文字入力できませんでした。

中央の釣り忍を手にした男。これも誰だかわからない。目線が切り子灯篭売りに向いているので、「身替音頭」の登場人物なのか?

とにかく観たことのない演目は、あらすじとして読みかじってはいるのだけれど、細かいところはわかりません。

この錦絵シリーズの「丸〆猫屋」の描かれている図についてはこちらをご覧ください。


今戸焼?⑳ 味噌入れ

2010-05-01 23:12:59 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010336 2007_0101_000000p1010335 この容器には「特製 みそ入」 「京ばし木挽町一 中井酒店」という文字があって、昔の東京への町名が入っていて面白いので手元に置いていたものなのですが、先の今戸焼⑲のつゆ徳利同様、今戸焼である可能性もあるのではないかと思うようになりました。蓋があったろうと思いますが残っていません。

今戸焼とは断定はできなので?をつけました。底の土の色は赤っぽくはなく、白っぽい灰色とでもいうような感じですが、内側は赤っぽいのです。或いは味噌を入れていたから「味噌焼け」しているのかもしれません。まあ東京の土ではないようですが、今戸焼では製品によって土を使い分けていた作例もあるので、土色だけの判断はできないわけです。

白っぽく見えるのは化粧土の色ではなくて、白い釉薬のようですが、あまり高温による焼きではないようです。楽焼に近い?

さて木挽町というのは現在の歌舞伎座がある辺り。現在は中央区です。 明治11年、東京15区の中に京橋区ができました。そして昭和22年日本橋区と合併して中央区になったので、その間に造られたものでしょうか?時代幅がありすぎますね。

あと考えられるのは、店名、住所に電話番号が入っていないということです。戦前のマッチラベルなどには電話番号が入った店もありますから、商売している家だったら電話を持っていたのではないか、番号がないということは、電話が民間の店に置かれる前の時期に遡るのではないか、しかし、それはいつ頃か?電話があっても書かないという事もあるでしょうが、あれば広告として入れる方が普通ではありませんか?

最初に戻ってみて、これがどこで作られたかというと、やっぱりわからないのですが、感触というアバウトな推測のレベルで、今戸焼である可能性も捨てきれないと思っています。おわかりの方いらしゃいましたら、先のつゆ徳利の件と併せてご教示いただきたく思っています。


皐月

2010-05-01 17:43:14 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010117 今日から5月。天気もこの季節らしくてよかったですね。

冬が来る前に吸水鉢で水気を抜いておいた土をずっと発砲スチロールの箱に寝かせておいたのですが。今日久しぶりに出して練ってみました。

まだべとべとしているので、ブリッジにして板に並べ、外に並べていました。こうしておくと外気に当たるところからも、また下に下がった水分も板に吸収されていくらか締まってきます。取り込んでからまた練ったり、またブリッジにして固さを調節します。同時進行でどろどろの土も吸水鉢に入れ、水分を除いていました。2007_0101_000000p1010225_2

しろちゃんが不思議そうに様子を見ていました。