ふろしき王子のブログ◎
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形があるようで、実際につかうときの形は不定である風呂敷ですが、
三角に折って、角からパタパタたたんでいくことで帯となり、
これで腰を締めておくことをおすすめします。

帯はきものがはだけないように留めるもの、というのは
その機能の4分の1であり、さらに重要な機能が秘められている。

ご存知チャイナドレスは、両脇にスリットがありますが、
元々は満洲族の服で、その下にはズボンを履きます。
さらにモンゴルの民族衣装にまで遡ることができますが、
そこでは帯を巻いています。

形の似ているベトナムのアオザイは、
チャイナドレスというか満服(旗袍)を参考に
デザイナーがつくったといわれていますが、
旗袍の生地を現地の氣候向きに、薄手で涼しいものに
変更したようなものと考えられます。

現チャイナドレスは、体型に即したような
ラインを見せるために洋裁の技術でできていますが、
もとの旗袍(チーパオ)はゆったりとしているので、
布本来の、四角いまま生かす縫製技術でしょう。
また、前者ドレスは脚を出しますが、後者はズボンです。
満洲の冬はとっても寒いのです。

満州と書かれることが多いですが、本当は「洲」です。
合衆国の州ではなく、三角洲の洲であり、
川や湿地も多い潤いに恵まれた土地の意味もあります。
そのため、稲作も盛んですが、
元々の満洲民族は狩猟がメインで、森もあります。
民族的に、モンゴルは親戚のようなものといわれますが、
そちら側(大興安嶺山脈より西)の草の高原こそが
遊牧民のステージとなります。

話をもどすと、そういうわけで
チャイナドレスのスリットは、遊牧民が
馬にまたがるために脚をひらきやすくする目的であり、
つめ襟は、寒風の吹き込みを防ぐため。
そこは満洲族の旗袍もモンゴルの服も一緒ですが、
違いはというと、モンゴルでは旗袍の上に帯を締めているスタイルです。

ここで、なぜ帯を締めるか問題なのですが、
旗袍(チャイナドレスをゆったりさせて、下にズボン。キョンシーの服も形は同じ)
だけでも、着物とちがって帯がなくてもずれることはありません。
だのに帯するのは、馬に関係があります。

ちなみに一節によると、人類がまだ裸に近い状態で
暮らしていた時代や地域でも、帯はしていたといいます。
帯や縄をするのは、海女さんのように、狩猟道具などを
挟んだり引っかけたりということで、
両手は使いやすく自由にしておくことは、
昔はもっと大事なことだったのかもしれません。

馬にゆられて、胃も揺さぶられると、
消化不良につながったり、下方へ伸びて胃下垂の原因にもなる。
そこで、日常的に乗馬をするモンゴルの民族は
帯をする必要に迫られたということです。

きものは日本の伝統的な民族衣装と、今ではなっていますが
縄文時代までさかのぼっていくと、ポンチョのように
頭を通してかぶる、貫頭衣になります。素材は大あさや苧麻や葛布など。
現在の着物のかたちは、大陸の絹の文化と多湿の風土に合わせた風とおし、
騎馬民族の帯など、いろいろ混ざりながら変化してできている。

米食は胃下垂になりやすいため、胃を支える帯は理に適っています。
ご飯は水に沈むので、胃を下げやすい。
肉類は脂肪もありますし、胃酸で分解されて意外と早く
フワフワになるのですが、
ご飯はよく噛まないと沈み、腹持ちはよくなりますが胃も沈みやすくなる。

そんなわけで、短い昼休みにお米を早食いしがちな現代日本人こそ、
腰に帯を締めたらよいと思っています。
締める高さも、胃を下から支えたいわけなので、
ウエストよりも下がよいです。上に締めるとかえって胃を下げかねませんが、
その前に、窮屈であまり食べられなくなり、とにかく苦しくなってしまいます。

ところが、普段着にきものの帯を巻くというのは、たとえ
半幅でも、角帯でも、へこ帯であってもかさばってしまうので、
中~大ふろしきを斜めにたたんだものが都合よく効果的。
バイアスの伸縮によって、一周でもきちんと締まりますし、
ゴムのような終わりなき圧力がないので、血流やリンパの流れの
促進にも貢献すると思っています。
ふろしきがなければ、バンダナやハンカチをたたんだものを、
短ければ2本以上つなげると間に合います。
そういう、見えない部分でも基礎として整えておくことで、
身体のパフォーマンスや制御、負担軽減などに生かされることでしょう。

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声に出さなくても、全てはメッセージとなる。

昔の白黒写真に、荷物をふろしきで巻いた、さらに上からひもでくくって
背負っているものがあった。
巻いたままでは角がぴらりんとゆらぐし、ひもでより安定させることができる。
風呂敷は、中身や目的に合わせて毎回新しい技を即興でととのえる心意氣が要る。



(モデル:asamin')

この写真では、ふろしき1枚で、巻きとひもの両者を機能させているが、
さように固定させているのは、そう易易とは取り出さない中身なのかと。

荷物をまとめて背負いながら、腰の下にも風呂敷を敷いている。
起き上がった後に、これはどのように持ち運ぶのだろう?
手で持っていくとも考えにくいので、腰に巻くか、マントにすることになる。
背の荷はかなり大事そうなので、それをさらに覆い守る意味では
マントがよい。服装は春か秋ぽいので、寒さよけにもなる。

来たときに羽織っていたものをほどいてまで腰に敷くなら、
それなりの時間座ることになるから、小休憩ではなく
何かを待っている可能性がある。
シャッターは閉まっているが街はあかるい。開店前か。
ドラゴンクエストⅢかWindows95待ちなのかは知らない。

どこか懐かしさをかんじてしまったのは、
ワンピースの間に巻かれた絣の風呂敷が
帯に見えてきたのと、エリの抜き感も相まって
きものの要素をはらんでいるためか。

敷いた風呂敷はマントにすると先述したが、
カメラに向けた表情はさほど緊張していないので、
仲間がいて、風呂敷はその人が提供したのかもしれない。
よりグレーター座布団へ進化させるなら、
他のふろしきやタオルなんかをくるむと
クッションになるが、そこまではしていないため、
長時間は座らないはず。

ほんのわずかに疲れても見えるので、
やはり道中のわずかな休憩であり、
遅からずふたたび歩き出すだろう。
背負いたる荷物は、未来なのだ。

furoshikigirl

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ふろしきは折り紙の布版と、いっとき語っていた。
ほぼ正方形の布を、切らずにたたみ結ぶだけで
様々なかたちへと展開させる点は共通している。

違いは、折り紙は曲げた状態でハリを保持するのに対し
風呂敷はふにゃっと重力に押されるため
形を保つには基本的に中身が必要となる。
風呂敷の一部や結び目を支えにすれば
いくらかの形を保てるが、折り紙のように
天へ向かってピンと立てるのは難しい。

風呂敷のよさは、ばんばんと実用できること。
折り紙にも、ふくさや箱という実用品はあるが、
主には飾りとして鑑賞するもの。

しかし、風呂敷にしても折り紙にしても、
素材次第で用途や機能の幅は変わる。
和紙の靴下すらも存在するように、
丈夫でコシもつよい手すきの和紙であれば、
子どもがちょっと遊んだ程度で破けたり潰えたりはしない。

風呂敷も、かつて引き出ものの包まれていたような
薄手のナイロン製では、重みに耐えきれずに
裂けるかもしれないが、
麻や藍染の木綿で、丈夫かつしなやかな生地であれば
アウトドアにも存分に生きるほどの強度をもち、
非常時の防護服としても頼もしいものになる。

あれこれと述べたが、それでも、四角いものから
指先であらゆるものを生み出せる
風呂敷と折り紙は、異母兄妹ほどの近さはある。

そこで、風呂敷を結んで、折り紙のように
いろんな生きものたちを作ってみようという
思いと、その可能性を抱いていますが、
たとえば10年近く前に出版した本には、
金魚、魚、亀、うさぎなんかを紹介した記憶がある。

その金魚は、個人的には嫌いじゃなかったが、
娘っちが「尾びれが大きすぎて変」というので
昨年の夏、改良を加えてみました。

せっかくなので、折り紙では実現しづらい
遊び方として、結んだ金魚を川に放してみました。
布は、軽くて浮くのではなく
船の帆が風をうけるように
布のひろい面積を水で押されることで
浮いたり流れたりすることができる。

本物の川に、ふろしきの金魚が泳いでいるのは
このごろのゲームのように、画面の中では
リアルな街角の位置にモンスターが生息しているというのとも
また異なるファンタジーの趣きがあって、
なんとも心のやすらぐ光景だった。



(モデル:asamin'  撮影:白井智)

そして、改めて感じ入るのは、
風呂敷は植物でできているということ。

植物がかたちを変え、金魚として
川を海へと向かってゆくのは、
原料のコットンが、海へ出てから
ふるさとの近くの川を目指しているのだろうかと
詩的な感慨にくらんでしまう、夏の暑い日だった。

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この画像に写っているふろしきは4枚です。

●はおり
ちょいと寒いとき、ささっと結んでほっこりとします。
また、生地が水につよければ、簡易的な雨具ともなります。
そのとき、リュックや背中に回したショルダーバッグを
覆うように羽織ると、雨から守りやすくなります。

●かごカバー
自転車のカゴに入れた荷物を押さえたり、
目隠し、日よけ、ひったくり防止にも役立つでしょう。
ちなみに写真のカゴは、川原のクズのつるを編んだものです。

●サドルカバー
硬くてお尻が痛いとき、雨がしみ込んでいるときは、
タオルをのせてから小風呂敷で包むとやさしい椅子へ。
かなり濡れている場合は、タオルの上からレジ袋をかぶせてから、
風呂敷でくるみます。

●巻きスカート
大風呂敷といっても、幅は1メートル前後なので
前から巻くと後ろが多少空くことがあります。
そこで、横から巻いて、側面にスリットが出るようにすると
ほどよくまとまります。
丈が長すぎるときは、折り曲げた角同士を結ぶか、
曲げた角それぞれ結びつけたひもを交差してから結びます。

(モデル:asamin'  撮影:白井智)

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近々、レジ袋が有料化されるという。
通常サイズは1枚2円~5円。

5円となると、結構な額であるが、
だからといってエコバッグを買うのはちょいとひと呼吸。

せっかくエコというなら、家の押し入れの隅に眠っている
生地を引っ張り出して、マイバッグや風呂敷を作りませんか。

市販のエコバッグはポリエステル製が多いのですが、
レジ袋のポリエチレンよりも生産にエネルギーを使う割に、
結局はうす汚れてくると捨てられるケースが多いようなので、
あまり環境のためになりそうもありません。

マイバッグを自作するまでゆかずとも、
今家にあるレジ袋を、使い回せばよいと思う。
それが完全に尽きたら、5円払って新品レジ袋を購入し、
何度も何度も使ったらいい。

そこでおすすめなのが、カチコチにならない結び方で、
言葉で簡単に(分かりにくく…)説明すると、
レジ袋の2つの取っ手の外側から、左右それぞれの手を通し、
通したまま、向かい側の持ち手をつかんで、
また左右にしゅっと引くと、口が閉まります。
同じことを2度繰り返すとさらに安定しますが。
ほどくのがたやすいので、使いまわしをしやすくなります。



(モデル:asamin'  撮影:白井智)

でもやっぱり、買い物は、布の袋、竹や柳、山ぶどうのかご、そして風呂敷をむすんだバッグなどを
こまやかにメンテしながら、楽しむことが暮らしのこころを豊かにすることでしょう。
上の写真は、商店街のパン屋さんでのひとコマですが、
麻(ヘンプ)の小風呂敷をつかっています。

風呂敷に向いている麻は、ヘンプ(大あさ)とリネン(亜麻)の2種類。
ジュート(黄麻)はチクチクしますし、ラミー(苧麻)は多少毛羽立つため、
摩擦の多い使い方には不向きです。

麻は水分を貯めこまない性質と、多孔質で隙間が多いため、
木綿よりも軽く感じます。そして乾きやすいため、高湿の日本にはぴったりで清潔。

レジ袋有料化の機会に、まずは家のなかに眠りたるレジ袋を掘り出して
大切に愛用するとともに、しわくちゃのレジ袋を持って歩くのが抵抗ある場合は
ぜひ、同じくタンスに眠っている風呂敷や布を利用して、
マイバッグは手づくりしましょう。何でも材料から買いそろえるのはエコといえない。
今あるものに、いのちを吹きこむことを、人は、その手と思いによって叶えられます。

今まではきっと、何でもかんでもレジ袋に入れていた方が多いと思われますが、
これからは、レジ袋は
1.野菜などの湿りもの→2.肉魚など臭いがつくもの→3.ごみ入れ
というように、段階を追って用途を変遷させ、使い倒した後に捨てるという
愛用の仕方に工夫し、普通の乾きものはぜひ、
風呂敷でまとめると、中身もずれにくく安定し、見た目もおしゃれにできます。

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今日は、まず田町で買いもの。お塩など。
スタッフの方たちとお話しして交流。

次に、稲荷町の小料理屋にふろしきを届けます。
出前弁当配達用。
浴衣地三巾の大風呂敷が、そこで使うにゃちょい大きすぎる
とのことで、ひと回り小さく縫い直してきました。
保育園に送る風呂敷と合わせて、
一晩で18枚縫製。
裁断は前日にしています。

お届けしたお店で、今度ランチをしてまた紹介したいと思います。

13時からは実家のお店。
路地の水槽用に、エビと水草を持ってきました。

こまめく通うようになると、徐々に自分の世界を
作ってゆく。

実際に鉢植えを置いたり、整理整頓して見える化すると、
物や場と知り合いになり、それらは味方になってくれる。

急な変化は長つづきしない。
日々、ほんの少しずつでも
手と思いを込めながら、
場や物と、言葉のない対話をつづけているうちに
いつの間にか、揺るがないものとなっている。

それを支えるのは、これまでの思いの蓄積。

嬉しさや楽しさによる、思いの深まりももちろんですが、
悲しさや悔しさはより忘れたくないものでもある。

新しい水槽にヌマエビを移したとき、
水質の急変によって死なせてしまったことがある。

しかし、元の水をたくさんは持ってこれないこともあるので、
出来るなら、エビが元々いた所の砂利を、
洗い流さずに持ってくるとよいと思う。

透明だったエビは、死ぬると赤くなり、
魂の抜けたことを見せつけられる。

金魚やメダカは、意外と新しい水にも順応するように見える。
それはきっと、粘膜が守っている。

エビが死んだことを悔やみながらも、
自宅の水槽にはまだ沢山いて、殖えている。

死骸は団子虫が食べにくる。
お互い、殻が頼りの存在なので
引き寄せるものがあるのかも。

ともあれ、人は意図も予期もせず、
当然悪氣がなくとも、失敗はつきものだから、
それを前提に、システムを構成する必要がある。

うまく行かずとも、いつでも元通りにほどいて
もどせるのは、まさに風呂敷の方法。

死んだエビは団子虫の一部となり、
食物連鎖を通して
様々にいのちの形を変えながら、
またいつか、きっと
エビに関わる要素に舞いもどるだろう。

さて、お店の後に
熱帯魚屋まで自転車を漕いで、
金魚を買いました。
金魚すくいにいるような、小赤と呼ばれる
ワキンの子どものようなもの。

路地に置いた水槽にボウフラがわかないようにという
目的が半分で、
あとは心の潤い用。

江戸できんぎょが流行ったのも
ボウフラ対策という説があります。

このような多目的性を期待するため、
風呂敷も金魚も、
それ自体はシンプルなものを選びたい
感覚があります。

何にでも似合うというのは、
全てに共鳴できるという意味で、
シンプルというのは要素が少ないのではなく、
全部あるから飛び抜けた特徴が分からないという
完全無欠のシンプルであろうと、
矜持を抱いております。

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今、居間では子どもが水槽でサワガニを飼っている。

地元にある、湧き水の流れてくる半分森のような公園で
捕えたもので、7,8匹いる様子。

サワガニの記憶は、私の実家の近くの寿司屋さんが、市場なのか
彼の故郷からであるのか、たま~にサワガニを分けてくれて、
それはバケツに、杉の青葉と一緒に入っていた。

杉の葉は抗菌力があるため、水に雑菌が湧かず
魚介類を清浄に保ちやすくなるのだろう。
同じ機能は笹の葉にもある。

そんなサワガニたちはたいていオレンジ茶色のような色だったが、
その後成人してから訪れた秩父の山の小川なり
柿田川公園の雨あがりの道で出会ったのは
それまた何とも美しき、水色のサワガニ。

実家で飼っていた小学校のときなどは、餌といえばご飯つぶだったが、
もっといろんな、特に蛋白質をちゃんと与えたほうが
長生きしただろう。でも、ミミズもあげていたかな。

小鳥を飼っていたので、掃除で出る雑穀の殻やフンが自然と集まる
ベランダの排水口の泥にはミミズが発生していた。
現在の自宅では小鳥の掃除どころか、毎日ある程度出される
野菜くずなどを裏庭に放っているので、そこにはミミズが売るほど湧く。

サワガニや亀の餌にもなっている。

ミミズが湧く土はよいといわれがちだが、大量にいる場合は
栄養過剰で、そのままでは窒素過多で虫に喰われて
野菜がうまく育たない土といえる。
そういう土は、水で溶くと濁ったままになる。
バランスのとれた土は、沈んで上から澄んできます。

このように、植物の状態は地上で見ているけれど、
原因は土にあることが多く、それはアジサイの花の
赤と青が土壌のアルカリ・酸性によるものとも通じる。
同様に、サワガニのオレンジと水色の違いにも理由があるのだろうが、
はっきりしていないという。

個人的に思うのは、色が違ったほうが、それに反応して
捕ろうとする天敵に一網打尽にされず、逃げおおせる可能性が
少しでもふえるからではないかと。
オレンジぽいのも、水色も、どちらも
サワガニのいる環境の保護色と見ることができるので、
カメレオンのように変色できないサワガニは、二色に分かれて
生き残ろうとしているのかもしれない。

そろそろ風呂敷につなげたいのだが、
風呂敷でつつむと、表面に見えるのは布で、
中身は基本的に隠れる。

中身は植物でいったら土のようなもので、
風呂敷のかたちは中身に対応するため、
同じ色や柄の風呂敷でも、中身次第で表情が変わる。

それは決して形だけでない。
荷物の重さによっても、布の引っ張られ感が様変わりする。
同じ弁当箱を包んでいても、中が空なのと
ご飯が詰められているのでは、外側の風呂敷の見た目さえも
変わってしまうのだ。

そのため、撮影でもたいていは中身を入れるようにしている。
それは、モデルさんが、中身の入った弁当箱を持つのと、
からっぽのものを持つのとでは、筋肉の緊張や弛緩と
それにともなう顔の表情までもが確実に変わり、
そこがヤラセとリアル、演技と自然体の微妙な差として顕れると思うから。

サワガニもアジサイも、環境に対応している。
風呂敷も、中の環境である中身に対応して変化する。

現代はどうしても、ふろしきの色と柄による見え方が全てになりがちだけど、
実は同じふろしきでも、その場所、使う人、中身、結び方、手入れによって
別人のごとく異なってゆくもので、
この風呂敷はださい、とか、この人は性に合わない、という
絶対的なものはない。
嫌な相手も、自分に対応して嫌な感じになっているかもという意味では
鏡なので、どこか似ているところがあるもの。

嫌いな人からは一目散に逃げたほうが得策なことも多いけど、
機会が許すなら、最後にいったん、話してみれば
実は誤解で嫌っていたことがあるかもしれない。
そのためにも、腹を割ってみるのだ、サワガニのように。

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幼少のころより様々ないきものを飼ってきましたが、
うさぎには縁がありませんでした。
いきもの好きの要因の1つは、外で
ざりがにやかぶと虫を捕まえる環境や機会が
多くなかったため、好奇心が卒業できずに
残っていたのでしょう。それは今でも多少あるのかも。

飼ってきたものを全て挙げるのは省略しますが、
金魚、メダカ、どぢゃう、十姉妹、セキセイインコ、チャボ、
かぶと虫、くわがた、グッピー...種類はこの4倍くらい。
うさぎは小学校のクラスメイトが飼っていました。
哺乳類は、家に犬と猫がいました。

ようやくうさぎと出会ったのは、2015年3月21日、春分。
夜遅めに帰宅する目前、川の土手に捨てられているのを見つけ、
警察官と一緒に捕えた後、飼い主が分からず保健所行きとなるので
引きとることになりました。

連れて帰るのに、以前飼っていた小鳥の鳥かごを持って行った
記憶ですが(またはダンボールだったかな)、
風呂敷で包んで運びました。

こういう状況は、昔、ふやしたチャボを
京都の知り合いへ届けるときも、
カゴを風呂敷で包んで新幹線に乗った思い出があります。

風呂敷で包まれることで、
中が薄暗くなり、多少遮音となり、
周りから覗かれなくなり、
風も入ってこず静かになって安心や安全につながる。

運ぶ人にとっても滑りにくく持ちやすいのと、
そもそも他に、包む道具は見つけにくい。
紙袋じゃ入らないし、カバンでも、
大きなカゴをすっぽりくるめるものはそうそう無い。
風呂敷をつかうと、たとえサイズが足りなくても、
もう1枚つないだり、斜めにたたんだバンダナやハンカチを
取っ手として加えたり、如何ようにもカスタム可能。

僕は風呂敷を、そこまで理念でつかっているわけでも、
感情で愛しているのでもない。
ただ簡単で便利でもっとも楽であることと、
自分で作り出し、使いやすく調節するような
新規創造と発見のよろこびが大きいのかも。

風呂敷という形そのものへの愛情よりも、
実現できる多くの機能に実際助けられている経験の
積み重ねが、身体化して距離感がなくなっている。

好きという感情は、距離感をも表している。
知れば知るほど、幻想や憧れよりも自分の一部となって
語りようがなくなる。
情報は少ない方が語りやすいのだ。

うさぎも、以前はアイコン的に「好き」と答えられていたのが、
飼って日々草を摘んだり掃除したりと生々しくリアルに
触れているうちに、好きという言葉と異なって
「そこにいる存在」となっている。
飼い葉を摘むために川原へ行けば、ついでに
日用工芸品用の竹や、葛のつるを採ったり、
ノビル掘り、よもぎ摘み、桑の実狩り、真竹のたけのこを抜く。
うさぎは我が家に、野の植物と親しむきっかけを届けにきてくれた。

どんなことも、何かのきっかけとなる。

風呂敷もまた、それを通して出会った人たち、ものたち、
体験、氣づきなど、
ふろしきを通して知った、広がった世界がある。
視点であり、次元ともいう。

うさぎの目、ふろしきの目、それは自分のそれまでの目とは
結構ちがう新しい風をもたらした。

自分の暮らしや世界に、ただうさぎや風呂敷が増えたのではない。
うさぎフィルタによって世界の見え方は変わる。
それまで盛大な雑草とみなしていた植物たちが宝ものに変わった。

ふろしきは、中身や具体的な細部、片隅、ちょっとしたひとコマを
慈しみ手をかけまなざすことで、その、愛につつまれたものや場には、
ありとあらゆる意味を、後づけできることを知った。
ひとことでいうと、テーマや目標よりも先に、中身があるということ。
コンセプトに縛られていたデザイン学生であった自分は、
ありがたく死ぬことができただろう。

社会に役立とうとまなざさなくても、
マイペースで変てこなマイブームであっても、
後からそこに社会的な意味、視点を与えれば仕事になる。

うさぎは、可愛いばかりの存在じゃなくて、
植物先生でもあったのだ。
風呂敷は、物を運ぶ昔ながらのつつみ布以上に、
哲学だったということ。
何事も、こんなものだろ、知ってる。と
たかをくくって決めちゃならない。
実際に密に接してともに暮らしてみないことには、
絶対に分からないから。

苦手なことほど狭い思い込みにある可能性があり、
飛び込んでみると、意外に最高だったりする。
あの日、うさぎは世話が面倒だから引きとるのはやめよう、とか
風呂敷は古臭いからやっぱ使わない、と見なさなくてよかったと思います。

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はじめて、自分で希んで買いにいき、飼いはじめた小鳥が、十姉妹。

人が、興味あることをランダムに書き連ねていくと、
一見無関係なようでいながら、根っこはみな
何らかの要素でつながっている。

今日、こちらのブログに
新カテゴリ「ふろしきコラム」なんて加えてみました。
ふろしきでコラム、なんぞといえば、
普通は風呂敷をベースにあれこれ語るもので、
善し悪しは置いといてもステレオタイプな既成の論になりやすい。
エコだ、伝統文化だ、つつむ、むすぶ、包容力etc...
ちっともわるくはないのだが、何ぶんひねくれ者だからして、
風呂敷のことを風呂敷で語るなんざ、照れるってもんで。

中身にあわせるのですよ、風呂敷は。
だから、先にテーマや器や形を決めずにいて、つつんでみたら、
あっ、 そう。こういう風になるんだ。と後から分かるのです。
ですんで、風呂敷について語ろうと初めから枠を設定することは、
ちっとも風呂敷的じゃない...面倒かもしれないけど、大切なところです。

だって、風呂敷そのものが、
別段お風呂に敷くだけの用途でないのに
「風呂敷」と名乗っている。引き算の極みというか、
ほんの一例の、つかい道のひとつを名前にしちゃってる。

「何でもつつみ布」なのに、何故風呂だか。
もしかすると、サウナの腰掛けに敷く布限定で
当初は名付けたけど、それまでもずっとみんなが使っていた
正方形に近い布と形は同じだから、風呂に敷いていない布までも
この名に包まれてしまったのだろうか。

長ネギと大根をつっこんでいる買いものカゴのことを
「クリームパン入れ」と呼んでいるごとある状況です。

こうしてもはや、あらゆる内容を包括できる存在と
なりました。
どんなに風呂敷以外のことを述べようとしても、
如実にふろしきを現すことになるから。

そんなわけで、十姉妹。

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