毎日新聞 2011年5月23日 東京朝刊
日本が87年から続けてきた南極海などでの調査捕鯨が重大な岐路に立たされている。反捕鯨団体の激しい妨害で事実上、実施が困難になっているためだ。一方、東日本大震災で宮城県石巻市の調査捕鯨船が被災したが、調査捕鯨を復興のシンボルにしようという動きも出ている。捕鯨はどうあるべきか。【立会人・小島正美編集委員、写真・西本勝】
◆今やめたら、復活は困難--東京農大名誉教授・小泉武夫氏
◆南極海まで行く必要ない--東海大海洋学部講師・大久保彩子氏
◇外交的な負け
立会人 反捕鯨団体「シー・シェパード」の妨害で2月半ば、南極海で活動していた調査捕鯨船団が3月末までだった予定を切り上げて帰国することになりました。調査捕鯨は来年以降、どうなるのでしょうか。
小泉 日の丸を掲げた公海上の船が「怖い、怖い」と言って逃げ出したわけですから、外交的に見て、日本の弱い面を世界にさらけ出したことになりましたね。調査捕鯨は国際条約にのっとった科学的な調査です。このままでは来年も同じことの繰り返しですが、日本は正論を貫き通すべきです。
大久保 船が引き返したのは乗組員の安全確保もあり、妥当な判断でした。南極海での調査捕鯨をやめれば、シー・シェパードは妨害活動の格好の舞台を失いますから、日本側にプラスでしょう。約8億円もの税金(補助金)を費やして捕ってきても、クジラの肉はあまり売れず、在庫は1年分近い四千数百トンもあるなど、調査捕鯨は消費や産業の現状とあまりにもかけ離れています。調査捕鯨はもう終わってもよい時期です。
小泉 クジラの肉が高いのは政府の補助金が少な過ぎるからです。もっと支援すれば、値段は安くなって、みんなが食べるようになります。ここで調査捕鯨をやめたら、牛肉を売りたくて仕方のない米国や豪州の思うつぼです。
大久保 なぜ、多額の税金を投入してまで南極海に行くのでしょうか。仮に商業捕鯨が実現したとしても、どの水産企業も南極海までクジラを捕りに行くことはないと思います。どの企業も参入の意思を表明していないのは採算が合わないからです。
立会人 補助金がなくても南極海へクジラを捕りに行く企業が現れるかどうか、それはクジラの資源いかんにもよりますね。
小泉 IWC(国際捕鯨委員会)の科学委員会が認めているように、南半球ではクロミンククジラが約76万頭、マッコウクジラは世界で200万頭もいます。増えたクジラは、人間が食べるサンマ、サケなどを大量に食べ、なんと人間の口に入る魚の約4倍もがクジラに奪われている。北海道沿岸ではサンマやタラがクジラに食べられる漁業被害も出ています。持続可能な範囲内でクジラを捕ったところで、どこからも文句が来る筋合いではない。
◇不確かなクジラの数
大久保 クジラの数の推定値は、計算方法によって大きく異なります。不確かな面が強く、クロミンククジラが増えているのか減っているのか、世界の科学者の間で合意はありません。局地的にクジラによる漁業被害があっても、世界全体で漁業資源がクジラのせいで減っているとはいえません。漁業資源の減少の一番の原因は漁業による乱獲でしょう。
小泉 欧米の人たちは保護のことばかり言いますが、例えば、米国産牛肉と鯨肉の環境比較をすると、牛肉1キロを作るには10キロ以上の飼料が必要です。その飼料を育てるには肥料や農機具などを作るための化石燃料がいります。また、世界中にいる牛はげっぷを出して、温暖化作用のあるメタンを大量に発生させています。クジラは海で自然に育つので、断然クジラを食べるほうがエコです。調査目的ではなく、公海で堂々と捕ればよいのです。
大久保 畜産業の方が環境汚染の負荷が大きいのは事実でしょう。ただ、畜産業は日本にもありますし、反捕鯨国を説得する材料としては弱いと思います。
立会人 商業捕鯨は国のやる気で実現するのでしょうか。
大久保 日本が商業捕鯨を再開するには、IWCで82年に決まった商業捕鯨モラトリアム(一時停止)を解除することが必要です。それには88カ国ある加盟国の4分の3以上の賛成が必要ですが、今は反対、賛成が半々なので、解除は非常に困難です。環境に配慮した厳しい規制を掲げたり、貿易問題などと絡めて、反対国の譲歩を迫る方法もありますが、日本の政府は長い間、効果的な対応を取ってきませんでした。IWCを脱退すべきだ、との声もありますが、国連海洋法条約の規定により、脱退しても自由に捕鯨ができるわけではありません。
小泉 しかし、ここで捕鯨をやめてしまったら、もう二度と復活することは難しい。いずれ世界的に食糧不足の時代がやってきます。その時にはクジラは貴重なたんぱく源として見直されます。ここで引き下がってしまうと次はマグロ、カツオも捕れなくなる。そして日本の水産業自体が衰退していく。捕鯨は日本の伝統文化です。昔はクジラに戒名までつけて葬ったところもあります。クジラの歯などを活用した工芸文化、多様な料理文化も絶やしてはいけません。3月には不運にも、東日本大震災があり、水産業への打撃だけでなく、今後は食料自給率が低下することも懸念されます。となると、いま一度、日本人はクジラに助けてもらう日がやってきます。宮城県石巻市の漁師さんたちが調査捕鯨を復興のシンボルにしようと頑張っています。みんなで応援しましょう。
◇食文化70年代から
大久保 食文化というと、随分昔からというイメージがあるようですが、捕鯨が食文化という言葉で語られ始めたのは広告キャンペーンの一環として登場した70年代です。私もクジラをたまに食べますし、おいしいとは思います。しかし、沿岸捕鯨で捕れたクジラをたまに食べるぐらいのぜいたくで十分です。日本人の大半は「捕鯨には賛成」とアンケートで答えていますが、そのわりにクジラをほとんど食べていない。郷愁で国の政策を決めるべきではありません。ただ東日本大震災で、沿岸捕鯨の拠点の一つである鮎川(石巻市)が大きな被害を受けたことはとても残念です。産業の復興支援なら、南極海ではなく、沿岸捕鯨を重視する方向へと政策のかじを切るべきでしょう。資源の持続可能性を大前提に、操業を沿岸に限った捕鯨なら国際的にも妥協が成立すると思います。
小泉 米国民を対象にしたアンケートでは、約7割の人は捕鯨に賛成しています。さらに米国政府は自国の先住民の捕鯨は認めています。外交の駆け引きで日本はもっと強くならないといけない。大久保さん、一度一緒にクジラを食べに行きましょうよ。
■聞いて一言
◇どちらも「分かる」だけに…
どちらの言い分も分かるのがつらい。クジラの食文化が大切なことも分かるし、民間企業では採算の合わない南極海での捕鯨に国民の税金まで費やす必要性があるのか、という理屈も分かる。私自身、クジラを食べる機会は数年に1度くらいなので、南極海での捕鯨が中止になっても、それほど苦痛は感じない。ただ、国際的な外交舞台で日本が敗北を喫し、捕鯨中止に追い込まれる姿を見ると愛国的心情もわいてくる。まして日本の調査捕鯨を破綻させることが目的であるシー・シェパードの思惑通りになるのは心中穏やかではない。実に悩ましい。(小島)
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■人物略歴
◇こいずみ・たけお
43年生まれ。東京農大卒。東京農大教授を経て名誉教授。「クジラ食文化を守る会」会長。専門は発酵学や食文化論。
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■人物略歴
◇おおくぼ・あやこ
74年生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学。在スウェーデン日本大使館専門調査員などを経て東海大講師。専攻は環境政策論や国際関係論。
http://mainichi.jp/select/opinion/souron/news/20110523ddm004070025000c.html
日本が87年から続けてきた南極海などでの調査捕鯨が重大な岐路に立たされている。反捕鯨団体の激しい妨害で事実上、実施が困難になっているためだ。一方、東日本大震災で宮城県石巻市の調査捕鯨船が被災したが、調査捕鯨を復興のシンボルにしようという動きも出ている。捕鯨はどうあるべきか。【立会人・小島正美編集委員、写真・西本勝】
◆今やめたら、復活は困難--東京農大名誉教授・小泉武夫氏
◆南極海まで行く必要ない--東海大海洋学部講師・大久保彩子氏
◇外交的な負け
立会人 反捕鯨団体「シー・シェパード」の妨害で2月半ば、南極海で活動していた調査捕鯨船団が3月末までだった予定を切り上げて帰国することになりました。調査捕鯨は来年以降、どうなるのでしょうか。
小泉 日の丸を掲げた公海上の船が「怖い、怖い」と言って逃げ出したわけですから、外交的に見て、日本の弱い面を世界にさらけ出したことになりましたね。調査捕鯨は国際条約にのっとった科学的な調査です。このままでは来年も同じことの繰り返しですが、日本は正論を貫き通すべきです。
大久保 船が引き返したのは乗組員の安全確保もあり、妥当な判断でした。南極海での調査捕鯨をやめれば、シー・シェパードは妨害活動の格好の舞台を失いますから、日本側にプラスでしょう。約8億円もの税金(補助金)を費やして捕ってきても、クジラの肉はあまり売れず、在庫は1年分近い四千数百トンもあるなど、調査捕鯨は消費や産業の現状とあまりにもかけ離れています。調査捕鯨はもう終わってもよい時期です。
小泉 クジラの肉が高いのは政府の補助金が少な過ぎるからです。もっと支援すれば、値段は安くなって、みんなが食べるようになります。ここで調査捕鯨をやめたら、牛肉を売りたくて仕方のない米国や豪州の思うつぼです。
大久保 なぜ、多額の税金を投入してまで南極海に行くのでしょうか。仮に商業捕鯨が実現したとしても、どの水産企業も南極海までクジラを捕りに行くことはないと思います。どの企業も参入の意思を表明していないのは採算が合わないからです。
立会人 補助金がなくても南極海へクジラを捕りに行く企業が現れるかどうか、それはクジラの資源いかんにもよりますね。
小泉 IWC(国際捕鯨委員会)の科学委員会が認めているように、南半球ではクロミンククジラが約76万頭、マッコウクジラは世界で200万頭もいます。増えたクジラは、人間が食べるサンマ、サケなどを大量に食べ、なんと人間の口に入る魚の約4倍もがクジラに奪われている。北海道沿岸ではサンマやタラがクジラに食べられる漁業被害も出ています。持続可能な範囲内でクジラを捕ったところで、どこからも文句が来る筋合いではない。
◇不確かなクジラの数
大久保 クジラの数の推定値は、計算方法によって大きく異なります。不確かな面が強く、クロミンククジラが増えているのか減っているのか、世界の科学者の間で合意はありません。局地的にクジラによる漁業被害があっても、世界全体で漁業資源がクジラのせいで減っているとはいえません。漁業資源の減少の一番の原因は漁業による乱獲でしょう。
小泉 欧米の人たちは保護のことばかり言いますが、例えば、米国産牛肉と鯨肉の環境比較をすると、牛肉1キロを作るには10キロ以上の飼料が必要です。その飼料を育てるには肥料や農機具などを作るための化石燃料がいります。また、世界中にいる牛はげっぷを出して、温暖化作用のあるメタンを大量に発生させています。クジラは海で自然に育つので、断然クジラを食べるほうがエコです。調査目的ではなく、公海で堂々と捕ればよいのです。
大久保 畜産業の方が環境汚染の負荷が大きいのは事実でしょう。ただ、畜産業は日本にもありますし、反捕鯨国を説得する材料としては弱いと思います。
立会人 商業捕鯨は国のやる気で実現するのでしょうか。
大久保 日本が商業捕鯨を再開するには、IWCで82年に決まった商業捕鯨モラトリアム(一時停止)を解除することが必要です。それには88カ国ある加盟国の4分の3以上の賛成が必要ですが、今は反対、賛成が半々なので、解除は非常に困難です。環境に配慮した厳しい規制を掲げたり、貿易問題などと絡めて、反対国の譲歩を迫る方法もありますが、日本の政府は長い間、効果的な対応を取ってきませんでした。IWCを脱退すべきだ、との声もありますが、国連海洋法条約の規定により、脱退しても自由に捕鯨ができるわけではありません。
小泉 しかし、ここで捕鯨をやめてしまったら、もう二度と復活することは難しい。いずれ世界的に食糧不足の時代がやってきます。その時にはクジラは貴重なたんぱく源として見直されます。ここで引き下がってしまうと次はマグロ、カツオも捕れなくなる。そして日本の水産業自体が衰退していく。捕鯨は日本の伝統文化です。昔はクジラに戒名までつけて葬ったところもあります。クジラの歯などを活用した工芸文化、多様な料理文化も絶やしてはいけません。3月には不運にも、東日本大震災があり、水産業への打撃だけでなく、今後は食料自給率が低下することも懸念されます。となると、いま一度、日本人はクジラに助けてもらう日がやってきます。宮城県石巻市の漁師さんたちが調査捕鯨を復興のシンボルにしようと頑張っています。みんなで応援しましょう。
◇食文化70年代から
大久保 食文化というと、随分昔からというイメージがあるようですが、捕鯨が食文化という言葉で語られ始めたのは広告キャンペーンの一環として登場した70年代です。私もクジラをたまに食べますし、おいしいとは思います。しかし、沿岸捕鯨で捕れたクジラをたまに食べるぐらいのぜいたくで十分です。日本人の大半は「捕鯨には賛成」とアンケートで答えていますが、そのわりにクジラをほとんど食べていない。郷愁で国の政策を決めるべきではありません。ただ東日本大震災で、沿岸捕鯨の拠点の一つである鮎川(石巻市)が大きな被害を受けたことはとても残念です。産業の復興支援なら、南極海ではなく、沿岸捕鯨を重視する方向へと政策のかじを切るべきでしょう。資源の持続可能性を大前提に、操業を沿岸に限った捕鯨なら国際的にも妥協が成立すると思います。
小泉 米国民を対象にしたアンケートでは、約7割の人は捕鯨に賛成しています。さらに米国政府は自国の先住民の捕鯨は認めています。外交の駆け引きで日本はもっと強くならないといけない。大久保さん、一度一緒にクジラを食べに行きましょうよ。
■聞いて一言
◇どちらも「分かる」だけに…
どちらの言い分も分かるのがつらい。クジラの食文化が大切なことも分かるし、民間企業では採算の合わない南極海での捕鯨に国民の税金まで費やす必要性があるのか、という理屈も分かる。私自身、クジラを食べる機会は数年に1度くらいなので、南極海での捕鯨が中止になっても、それほど苦痛は感じない。ただ、国際的な外交舞台で日本が敗北を喫し、捕鯨中止に追い込まれる姿を見ると愛国的心情もわいてくる。まして日本の調査捕鯨を破綻させることが目的であるシー・シェパードの思惑通りになるのは心中穏やかではない。実に悩ましい。(小島)
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■人物略歴
◇こいずみ・たけお
43年生まれ。東京農大卒。東京農大教授を経て名誉教授。「クジラ食文化を守る会」会長。専門は発酵学や食文化論。
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■人物略歴
◇おおくぼ・あやこ
74年生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学。在スウェーデン日本大使館専門調査員などを経て東海大講師。専攻は環境政策論や国際関係論。
http://mainichi.jp/select/opinion/souron/news/20110523ddm004070025000c.html