今年(2017)から「月曜日」に限って、これまでのブログの中で今でもアクセスが絶えない記事をピックアップして登載しているが、今回は5年ほど前に投稿したタイトル「クラシック ゴシップ」である。それでは以下のとおり。
「音楽は哲学よりもさらに高い啓示である」と語ったのは楽聖ベートーヴェンだが、一般的に知的でお堅いとされるイメージを持つクラシックの作曲家たちも、一皮むくと一癖も二癖もある生身の人間たちだったというのが「クラシック・ゴシップ!」~いい男、ダメな男、歴史を作った作曲家の素顔~(2011.9.7、ヤマハ・ミュージック・メディア)という本だった。
著者はフリーライターで音楽関係の著作が多い上原章江さん。
興味本位で読んでみると、これまで自分が多少なりとも蓄えていた知識とそれほど食い違っているわけでもなく、なかなか正鵠を射ている本だと思った。それを裏付けるように巻末の「主な参考文献」には36冊もの専門書が挙げてある。
目次を追ってみると次のとおり。
第一章 おなじみ三大巨匠にまつわる”噂の真相”
J・S・バッハ 生涯働き続けた、真面目で頑固なマイホームパパ
孤高の哲学者? はたまたストイックな数学者?/子供はなんと20人。頑張れ!働くお父さん/夫婦円満のコツは、亭主関白?
モーツァルト 子供のように無邪気な天才は、本当に愛妻家だったのか?
名だたる作曲家の中でも、ズバ抜けていた神童ぶり/早熟な天才肌は金勘定が苦手・・・/世間知らずゆえ、やり手の未亡人に手玉にとられる/妻・コンスタンツェは本当に悪妻だったのか?
ベートーヴェン 野暮で不器用で孤独。母性本能をくすぐる色男!?
ルックスで女心をくすぐる要素はほぼゼロ?/次々と淑女たちを引きつけた魅力の秘密/いまだに確定していない”不滅の恋人”/うら若き教え子に次々惚れた恋多き男/年の差なんて関係ない!とにかく結婚したかった!/人妻と不倫中に元彼女が妊娠というドロドロ劇
こういった調子で、以下、「メンデルスゾーン」、「リスト」、「ショパン」、「シューマン」、「ブラームス」、「チャイコフスキー」、「ドボルジャーク」、「ロッシーニ」、「ベルリオーズ」、「ワーグナー」、「マーラー」、「ドビュッシー」、「ストラヴィンスキー」と著名な作曲家たちが続く。
ゴシップという観点からするとスケールの大きさから「ワーグナー」にトドメをさす。
ワーグナー 恩を仇で返してのし上がってきた、究極のオレ様男
男も女も引きつける、常識はずれの強烈なキャラクター/圧倒的な才能ゆえ、友人の妻を寝取っても許された?/さすがのリストも堪忍袋の緒が切れた!/コジマのワーグナーへの献身はファザコンの裏返し?/王様のパトロンを得て、オレ様人生ここに極まれり
といった具合。
あの崇高な音楽とそれを創りだす作曲家たちの落差が実に印象に残る本で、才能と人格は別物だと分かってはいるものの「音楽と倫理観」とはいったいどう結びついているんだろうと思ってしまう。
そこで登場するのが、かっての名指揮者ブルーノ・ワルターが1935年にウィーンの文化協会で「音楽の道徳的な力について」と題して行った講演の内容である。
今どき「道徳」なんて言葉を聞くのは珍しいが、中味の方は音楽に対するワルターの気取らない率直な思いが綴られたものでおよそ80年前の講演にもかかわらず、現代においてもまったく色褪せない内容だ。
以下、自分なりに内容を噛み砕いてみたので紹介してみよう。
はじめに「果たして人間は音楽の影響によってより善い存在になれるものだろうか?もしそうであれば毎日絶え間ない音楽の影響のもとに生きている音楽家はすべてが人類の道徳的模範になっているはずだが」とズバリ問題提起されている。
ワルターの分析はこうだ。
1 恥ずかしいことながら音楽家は概して他の職業に従事している人々に比べて別に少しも善くも悪くもない
2 音楽に内在する倫理的な呼びかけ(高揚感、感動、恍惚)はほんの束の間の瞬間的な効果を狙っているに過ぎない。それは電流の通じている間は大きな力を持っているが、スイッチを切ってしまえば死んだ一片の鉄に過ぎない「電磁石」のようなものだ
3 人間の性質にとって音楽が特別に役立つとも思えず過大な期待を寄せるべきではない。なぜなら、人間の道徳的な性質は非常に込み入っており、我々すべての者の内部には善と悪とが分離しがたく混合して存在しているからだ
以上、随分と率直な語りっぷりで「音楽を愛する人間はすべて善人である」などと語っていないところに大いに感心する。いかにもワルターらしい教養の深さを感じさせるもので「音楽の何たるか」を熟知している音楽家だからこそ説得力がある。
作曲家にしろ演奏家にしろ所詮は同じ人間であり、いろんな局面によって変幻自在の顔を見せるのは当たり前のことなので、ワルター言うところの「音楽=電磁石」説には大いに共感を覚えるのである。
ただし、ここで終わると、まったく味も素っ気もない話になってしまうのだが、これからの展開がワルターの本領発揮といったところ。
「それでも音楽はたぶん我々をいくらかでもより善くしてくれるものだと考えるべきだ。音楽が人間の倫理に訴える”ちから”、つまり、音楽を聴くことで少しでも正しく生きようという気持ちにさせる」効果を信じるべきだという。
ワルターは自分の希望的見解とわざわざ断ったうえで音楽の倫理的力を次のように語っている。
☆ 音楽そのものが持つ音信(おとずれ)
「音楽とは何であるか」という問いに答えることは不可能だが、音楽は常に「不協和音」から「協和音」へと流れている、つまり目指すところは融和、満足、安らかなハーモニーへと志向しており、聴く者が音楽によって味わう幸福感情の主たる原因はここにある。音楽の根本法則はこれらの「融和」にあり、これこそ人間に高度な倫理的音信(おとずれ)をもたらすものである。
という結びになっている。
肉体も精神も衰える老後において「充足感=幸福感」というものをどうやって得られるかは、たとえ束の間とはいえ切実なテーマだと思うが、日常生活の中でふんだんに「いい音楽(倫理的音信)を、好みの音で聴く」ことは比較的簡単に手に入る質のいい幸福感ではなかろうか、なんて勝手に思うのである。
まあ、オーディオ愛好家特有の「我田引水」というものだろうが(笑)。