「広大で深いその森…」
前々回からの続きです。
僕は酒場で他の人に声をかけることはまずない。特に本を読んでる人にはぜったいに声をかけない。それは前述したように、僕自身、読書の邪魔をされるのが嫌だからです。
ところがや、その紳士が読んでいるその本をまじまじと見た挙句(あげく)、思わず声をかけてしまった。
「あのー、ちょっと不躾(ぶしつけ)で失礼ですけど、今、読んではるその本、ウールリッチの短編集ですよね?」
「エッ? そうですけど、どうしてわかったんですか?」
「僕も、ついさっき、同じのを買ったばかりなんです、ほら!」
まあ、彼とは意気投合しちゃってさあ、そのあと、場所を変えてミステリー談議に花を咲かせましたね。
「私は毎週金曜の夕方にはこの明治屋でイッパイ呑(や)るのを楽しみにしています。また是非、金曜日に会いましょう」
で、僕より十数歳ぐらい年長の彼、М氏と、毎週金曜に会うのが楽しみになりましたね。
Мさんは、英国はもちろん、アメリカやフランス、さらに、北欧のミステリーを紹介くださるなど、数多くの優れた作品を僕に教えてくださった。
さらに、モーツァルトやエリントンなど、クラシックやジャズが大好きだと云う彼と、音楽談義にも大いに華が咲いたのは、より嬉しいことだった。
本や音楽に関する彼の知識の豊富さには随分舌を巻いた。しかし、決して、見せびらかすような語り口をしない方だった。でも、その語り口は静かだけど、常に熱がこもっていたなあ…。僕は、彼、Mさんのお話に魅了されましたね。
ある時、いただいた彼の名刺を見てめちゃびっくりした。
…電通大阪 クリエイティブ局長 М…
なんと、あの電通のクリエイティブ局長…、めちゃ偉いさんやないか。
その後、定年退職したM氏は、京都と奈良の境目あたりに瀟洒(しょうしゃ)な山荘を建てられた。立派なオーディオ装置を備えたそのウッディな部屋の写真とともに
「ちょっと遠くて不便なところですが、ウマさん、ぜひ遊びに来てください」と誘ってくださった。
残念ながら、彼とはそれ以来になってしまったけど、今、どうしていらっしゃるかなあ? 御健在なんだろうか…
誰が見ても、長身の立派な紳士のMさん…、広告業界という多忙な世界におられたにもかかわらず、毎週金曜日の夕方だけは、頑(がん)としてご自分の時間を確保されたMさん…
プリンシパル、あるいはポリシーっちゅうのかなあ、自分の肩書以上に、それらを大切にしていた方だと、今、思う。常識的に見て社会的地位の高い方だったけど、はるか年下の僕に対して、上から目線など微塵(みじん)もない常に対等の関係をごく自然に維持してくださった、とても素敵な方でした。
僕が、自分の子供たちも含め、年少の方に偉そうな態度をとらないように常に気を付け、さらに敬意を忘れないように心がけているのは、彼、Mさんの影響が大きいと思う。人間関係ってすべて相対的なもんだよね。でもね、上から目線ってのは常にあかん態度だと僕は思っているよ。そんなことをさりげなく教えてくださったMさんには感謝したいなあ。
ま、どこで、どんな人と出逢(であ)うかわからないよ、って云うお話ですね。
閑話休題…
さて、僕は、いつの頃からか、トリックを主体にしたミステリーより、動機の意外性や、どんでん返しに納得できる必然性があるものを好むようになった。さらに、登場人物の人間性がリアルに描かれているものに惹(ひ)かれる。
日本の、ベストセラーのミステリーを読んでいて、登場する有名探偵のイメージを思い描くことが出来ないことがけっこうある。さらに、名探偵が、とってつけたように登場し、都合のいい場面で都合のいいヒントや目撃者が登場…ちゅう安易なプロットに不満を覚えることも少なくない。
松本清張の長編だと「点と線」や「砂の器」などより「球形の荒野」に惹(ひ)かれる。彼の他の作品にはあまり見られない抒情溢(じょじょうあふ)れるラストシーンには心打たれる。このラスト、何度読んでも、目が潤む。
彼の長編は全部読んだわけじゃないけど、一つ選べと言われたら、やっぱり「球形の荒野」じゃないかな? 今のところ…
…奈良の古寺の芳名帳(ほうめいちょう)に筆で署名されたその独特の書体が、日欧を舞台にした意外な現代史が解き明かされる物語のプロローグ…
そんな特異なプロットの着想も、清張氏の日頃の努力の賜物(たまもの)なんだと思う。
余談になるけど、映画「砂の器」のファーストシーンにはずっこけた。
放浪の旅の男の子が、砂浜の砂で作った器が、波に流されるシーン…
「砂の器」の器と云うのは象徴的な意味なんだよね。決して具象としての器ではない。名匠・野村芳太郎監督、この人、何を考えてたんやろ?
そして、この映画のもう一つの欠陥、と云うより、大いに白けた場面は、そのラストシーンです…
加藤剛扮(ふん)する新進作曲家の主人公が、晴れの舞台で、オーケストラの伴奏で自分が作曲したコンチェルトを、みずからピアノで演奏する映画のクライマックスシーン…
ところが、加藤剛さん、ピアノを弾いてる振りして実際に弾いてないのが見え見えなんや。白けちゃうのよこういうシーン。もう、演技とか演出以前の問題や。
野村芳太郎監督、何もアイデアなかったの? 大事なラストシーン、実際に弾いてるように工夫した画面を見せないとアカンと思うけどなあ。
ロマン・ポランスキーのアカデミー受賞作「戦場のピアニスト」…
ポーランド人ピアニスト役を演じたエイドリアン・ブロディ…、何度も彼がピアノを弾いているシーンが出て来る。ところが、どう見ても、彼が、実際にピアノを弾いているように見えるんや。ある程度、実際に弾いてるのはまちがいないけど、すごく巧(たく)みにフィルムを繋(つな)いでる。
さらに、僕の好きな女優ミシェル・ファイファーが売れないシンガー役で出る「恋のゆくえ」…この映画の中で、彼女の恋の相手として出るピアニスト役が、やはり僕の好きな俳優ジェフ・ブリッジス…
そして、ふんだんに出て来る二人の共演シーン…どう見ても、ジェフ・ブリッジスが本当にピアノを弾いてるんです。俳優としての彼がそこまで達者なピアノが弾けるとはとても思えない。いったい、どういうトリックを使ったんやろ? それとも猛練習(もうれんしゅう)したんやろか? そうだとしたらエライ!
ま、いずれにしても、日本の映画監督さん、そして演出家の皆さん、俳優さんがなにか楽器を弾くシーンでは、とにかく、本人さんが間違いなく弾いているような画面を工夫して創ってください。そうじゃないと白けるんですよね。
そうそう、松本清張で忘れてならないのが、何と云っても「日本の黒い霧」です。僕は現代史、特に日本の戦後史に興味を抱いているんで、それらに関する本はかなり読んで来た。敗戦後の日本を支配したGHQ(連合軍総司令部、実体はアメリカ)が、今日の日本の(アメリカ追随の)基礎を作ったのは当然と云ってよい。
司令長官マッカーサーは、当時、天皇陛下さえもその支配下に置くオキュパイドジャパンにおける最高の存在だった。
あの…、ごめん、また余談ですけど…
その昔、テレビ朝日開局ン十周年記念番組で、戦後、天皇の存在をどう扱うかというドキュメンタリードラマがあった。
ケント・ギルバート主演のそのノンフィクションドラマに、GHQ本部の秘書役で、なんと、女房のキャロラインが出演した。
彼女が、ソビエトの動向を想定したGHQ作成の、日本を南北に分断した大きな地図をGHQ首脳陣の前に掲げてテレビ画面に登場した時、家族一同、バンザーイ!してしもた。「あーっ!出た出たー!」
おのおの方なあ、ウマの話は余談がほんまに多いよね。ゴメンやっしゃ! もう、大いに反省・自省…(ほんまは反省してないけど…)
で「日本の黒い霧」…
これを読む限り、帝銀事件、もうGHQの関与は明らかですね。もちろん、平沢貞通の冤罪(えんざい)も間違いない。間違いないというより確かです。
僕は、警察の捜査の杜撰(ずさん)さも指摘した松本清張の、この説に対する反論を、時間をかけて探したけどなかった。僕が不思議に思うのは、事件関与を避けるためアメリカに移動させられたGHQの将校たちに、その後、日本のメディアがいっさい取材していないことなんです。
彼らはもちろん何も喋らなかったと思う。でも、なぜ喋らないか?ということが状況証拠になったと思うんや。いや、メディアも大きな圧力を受けていたと云うことか?
日本の現代史、特にその戦前戦後、何があったのか? これは追及し過ぎることはないと僕は思ってる。これを詳しく検証することは、平和への大いなる礎(いしずえ)になるとも確信している。
さてさて、登場人物の人間性がリアルに描かれている作品が好きやと前述した。
東京のベテラン編集者のF女史は、年に何回か、航空便で大量の本を送ってくださる。郵送料を見て目が飛び出るその大きな段ボールの箱のなかに、数多くの時代小説に混じって、デンマークのユッシ・エーズラ・オールスンの「特捜部Q」シリーズ(ハヤカワミステリ)が入っていたのは、かなり以前のことになる。
もちろん、F女史が送ってくださるまで、彼、オールスンのことはまったく知らなかった。スコットランドの田舎にいるとね、本に関する情報が極端に少ないんや。
日本の新聞の一部をインターネットで読むことは出来る。しかし、ほとんどの新聞が朝刊の第一面下に並べている本の広告を見ることは出来ないし、書評もすごく限られている。僕は日本の新聞(朝刊)を手に取った時、真っ先に、第一面下に並ぶ本の広告を見るのが楽しみなんです。
「特捜部Q」…北欧その他で最高の賞を何度も得、圧倒的人気のこのベストセラー警察小説シリーズを、F女史は、新刊が出るたびに、利尻昆布や、こちらでは得難い珍味など、大量の日本食材と共に送ってくださるんや。ありがたいよね。
「特捜部Q」って云う、いかにも警察もんっちゅうタイトルに騙(だま)されたらあかんよ。単なる謎解き以上に、人間と社会をしっかり描いた部分がこのシリーズにはある。
オールスンって云う人、たいした作家やと思う。
初めて読んだのが、このシリーズ第二弾の「キジ殺し」…
これには、初めからくぎ付けになった。描かれる主要な登場人物の、そのリアルさに、まず、驚いた。
主人公の特捜部の責任者カール…、いくつも個人的問題を抱えたその人間臭さを、日本の名探偵、浅見光彦や十津川警部などに見出すことは難しい。欠点だらけのカールと違って、彼らは現実感のない英雄やしな。
シリーズ第四弾の「カルテ番号64」…、実際にあったデンマーク社会の負の側面も、その行間にはっきり示しているこの作品、その複雑なプロットは、ミステリー史上、読み手の想像をはるかに超えたものになっている(と思う)。
著者自身がその短いあとがきで、デンマーク王国を冷静に告発している。
そのラストに驚愕(きょうがく)した僕は、主人公の女性ニーデの、この上ない不幸な生涯に、もう、なんとも言えないものを感じて、読み終えた直後、思わず慟哭(どうこく)してしまった、ラストページを開いたまま…
頬(ほほ)を伝わるものをぬぐっている時に、たまたま女房のキャロラインが部屋に入って来た。そして云った…
「ウマ…、あんた、泣いてんのね」…うっ…
はじめから終わりまでとても暗いストーリーだけど、そのラストシーン、彼女に理解を示していた人の、その愛ある言葉に、ほんの少し癒(いや)される…
第六巻目の「吊(つ)るされた少女」も、犯人が一転二点三転四転し、最後まで目が離せない。おのおの方、読んでみてごらん。ほんまに手に汗握(あせにぎ)って、映画を観ているようでっせ。
オールスンの特捜部Qシリーズは、デンマーク社会の一面を描いている点でも大いに魅力があるっていうことですね。そして、生々しいんや。登場人物といい、情景といい風景描写といい、まるで映画を見ているように展開される。だから目が離せない。もちろん、翻訳者の力量にも大いに感謝したい。
この、ユッシ・エーズラ・オールスン、世界的に絶大な人気の作家らしいけど、ハヤカワミステリの裏表紙にある、その顔写真を見て、特捜部Qのカールはこの顔や! もう、いかにもってな感じのふてぶてしさに笑ってしまう。
このシリーズのお陰で、これぞミステリー!の醍醐味(だいごみ)を、さらに堪能(たんのう)しているウマでございます。
そうそう、僕は、北欧ミステリーに限らず、海外小説を読む時は、いつも、ストーリーに登場する都市や街など、必ず、その所在を世界地図で確認するようにしている。するとね、ストーリーが、より立体的になって、臨場感が増すんだよね。おのおの方も、これやってみて。効果抜群だよ。
僕が初めて読んだ北欧小説は、かなり以前のことだけど、スェーデンの作家夫婦が書いた「笑う警官」だった。これが北欧小説に興味を示すきっかけになったと思う。そう、例の、マルティン・ベックシリーズです。
プロットそのものもかなり凝(こ)ったものなんだけど、社会福祉が行き届いていると思っていた理想郷(りそうきょう)スェーデンの暗部の描写が僕を惹(ひ)きつけた。つまり、ペール・ヴァールーとマイ・シューヴァル、この作家夫婦は、しっかり、社会も描いているんですね。
あの福祉国家スウェーデンで、ホームレスの酔っぱらいが、通りで叫ぶ…
因(ちな)みに、直木賞作家の佐々木譲に「笑う警官」と題された警察もんがある。このタイトルはアカンやろ。上記の「笑う警官」は世界中で大ベストセラーになった有名作品や。佐々木譲がそれを知らん筈がない。同じタイトルを付けるってのは遠慮するのが常識ちゃうかなあ? 皆さん、どう思う?
ああそうや! オールスン同様、すべての作品が、もう、スリル満点、今や、人気絶頂、アメリカのジェフリー・ディーヴァーにも、この際触れなければいけないな…
「ボーン・コレクター」「石の猿」「魔術師」「限界点」「スキン・コレクター」「バーニングワイヤー」「ゴースト・スナイパー」…すべてお薦めしたい。読みだしたらね、もう止まらないよ。
ジェフリー・ディーヴァーの存在も、やはり、F女史によって知った。
彼女は、オールスンの作品同様、毎回、ディーヴァーの新しい作品を、多くの日本食材とともに送ってくださる。文庫本とちゃうよ! 重たいハードカバーやで!
世界中で大ベストセラーの本が、信州味噌や利尻昆布、いかの塩辛、五目めしの素、うなぎ茶漬け、四合瓶の日本酒などの間にはさまれて箱の中にあるのよ。なんか、嬉しくなっちゃうよね。
F女史からのでっかい箱を開けてるとね、もう、ついついニコニコしてるんやいつも。でも、その航空便、郵送料だけで、毎回、三万円四万円なのよ。いつもギョッとしてのけぞります。F女史に…もう、お礼の言葉もない…と言ったことがある。彼女の返事は「私にお礼を言う必要はありません。その代わり、ウマさんの周りの方々に尽くしてあげてください」…ますます言葉がない…
「限界点」など、しょっぱなのカーチェイスのシーンから、あっと驚くどんでん返し。もう、いやはや…なのよ。普通の作家じゃないねディーヴァーは。すごく緻密(ちみつ)なプロットを、しかも念入りに考える人や。
イアン・フレミング財団の許可を得て出版された「007白紙委任状」など、その想像を超えた展開に、ウマは唖然(あぜん)としてしもた。この「007白紙委任状」映画になるんじゃないかなあ。そう期待したい。
オールスンと同じ年、1950年生まれのディーヴァーも、人物と社会をかなりリアルに描いている。「石の猿」など、冒頭で、中国人の密入国の様子を詳しく描いているけど、思わず、これ、ほんとの話とちゃうか、と思ってしまった。いや、ほんとの話でしょう。
彼の練(ね)りに練(ね)った緻密(ちみつ)なプロットの作品を読むとな、日本の某作家の時刻表トリックなど、まるで子供騙(だま)しに思えてくるのよ。悪いけど…
アカン!…きりがない。もう止(や)めとく…
現代のクリスティー、ルース・レンデルや、一味違う本格ものを書く女流のP.D.ジェイムス、さらに、盗みやかっぱらいをしていたストリートチルドレン、つまり捨て子が、凄腕(すごうで)の女刑事になったキャシー・マルロー・シリーズのキャロル・オコンネルなど、書きたい作家や作品は、もう山ほどある…ほんまにきりがない。
だから、本という森は広大で奥深く…と冒頭に書いたのでございます。
今回は、ミステリーなど、エンターテイメント本で紙面が尽(つ)きた。
いつになるかわからんけど、次回は、優れた作家が百花繚乱(ひゃっかりょうらん)、ウマがこよなく愛する日本の時代小説、さらに、現代史に大いに興味を持つウマが読んできた日本の戦後史に関する興味深い本など、他の分野にも言及したい。
歴史を学ぶことは非常に大事なことやと思う。特に現代史を検証するってことは平和への礎(いしずえ)になるんや。僕は、日本のあらゆる高校で、日本史や世界史の他に、必須科目として「現代史」も教えるべきだと考えている。
じゃ、本好きのおのおの方…いつかまたの機会にね…
「ロンググッドバイ」でござる…
さあ、さあさあ、いよいよおいらの読書タイムや…
オーイ! キャロラインさんやーい!
ワイン頼(たの)んまっさー! オーイ! オーイ!
アレッ? 聞こえてるんかいな?
オーイ!美人でセクシーなキャロラインさんやーい!
あっ、聞こえたみたいや!