「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

真空管の寿命を考える

2024年08月16日 | オーディオ談義

新刊「新失敗学」(畑村洋太郎)の中に次のような記述があった。(99頁)



「ゆでガエルという言葉があります。カエルはいきなり熱湯に入れると熱くてすぐに飛び出すものの、常温の水に入れて徐々に水温を上げていくと逃げ出すタイミングを失ってそのまま死んでしまうという寓話(ぐうわ)です」

つまり、「ぬるま湯に浸っていると危機が迫っているのに油断して変化に対応できない」というわけ。

これは真空管愛好家として身につまされる話ではなかろうか。

というのも毎日使っている真空管アンプの出力管や整流管の寿命が尽きかけて次第に音が劣化しているのに気付かないまま代えるタイミングを失っている状況を想像してほしい。

真空管は所詮は消耗品であり、どんなに気に入った真空管であろうと寿命がくるので、日頃からスぺアをコツコツと準備してきた。



我が家で保管している真空管(出力管、整流管など)の一部だが、ご覧のとおり内部構造に変化をきたさないようにすべて「縦置き」にしている。

もちろん、配送するときなども縦置きである。たとえば、オークションで真空管を購入して横向きの状態で配送してきたときは、その人は「素人」さんだと思って間違いはない。

で、STC、ムラード、GECなどイギリス系が圧倒的に多いが、かなりの希少管も混じっているので全部使い切ってから「息」を引き取りたいものだが、それほどタイミングよくいくはずもなく、たぶん無理だろうなあ・・(笑)。

それはさておき、そもそも真空管の寿命ってどのくらいなんだろうか?

それこそ専門家が山ほどいらっしゃる中で「盲目蛇に怖じず」で、あえて言わせてもらうと球の種類やブランドでも違うが、十把一からげに大まかに時間単位でいくと寿命を6000時間として幼年期が1000時間、壮年期が4000時間、老年期が1000時間といったところではないかな。

毎日5時間使ったとして1200日、およそ4年ぐらいの寿命になるわけだが意外に短い。

我が家では9台のアンプを日替わりメニューのように駆使しているが、当然、球の寿命を延長する効果も脳裡の片隅にある。


さて、人間の場合は自分がどの年期に属するかは簡単そのものだが、真空管ともなるとはたしてどの時期に相当しているか、それを見分けるのが実に難しい。

新品を購入して使うのが理想だが評判のいい古典管ともなるとまず無理なので
やむなく中古市場で手に入れたものを使わざるを得ないが、そうすると履歴がわからないので見当がつかない。

これには実は苦い思い出があって5年ほど前のこと「STC」ブランドは長寿命だしと、中古品「4274A」(整流管)をたしか8万円ぐらいでオークションで手に入れたものの使い初めて2年もしないうちにフィラメント切れでお釈迦に~。なけなしのお金をはたいたのにもうガックリ(笑)。


それはさておき、真空管が壮年期に当たるのならもちろんいいが、もし老年期に入ったとするといったいどのくらいで「姥捨て山」に行かせるか、その時期を常に意識せざるを得ないのが宿命だ。
      

いつぞやのこと古典管の「泰山北斗」氏に真空管の寿命のノウハウに関して伝授していただいたので紹介しておこう。

「まず真空管は頻繁にON-OFFを繰り返しますと著しく寿命を縮めます。真空管の寿命があとどれくらいあるのか推定するのは非常に難しいです。Hickok社のチューブテスタでライフテストを実施するのが最も簡便な方法でしょう。 

ライフテストはHickok社の特定のモデルのみで可能ですので機種の選定は重要です。ライフテストが可能な最も安価なモデルは533型と思います。現在私は533型を使用しています。 
 
539Cが最も有名な高級機種なのですが、完動品は〇〇万円以上します。WEタイプは更に高価で故障時のメンテナンス費用も相当にかかります。533型ですと本体〇万円に送料+メンテナンス費用くらいでしょうか。 
 
最も有名なチューブテスタTV-7はHickok社の設計ですが、ライフテストができないのが難点です。私はチューブテスタのコレクターでもあり、修理待ちのテスタが15台以上あります。
 
チューブテスタの修理作業は非常に時間と費用がかかりますので1年に1台程度のペースで修理しています。部品が手に入らず10年以上手付かずのチューブテスタもあります。」

ご教示ありがとうございました。

とはいえ、現実にはチューブテスタを持っていない人がほとんどだろうから、気になる方は真空管をまとめて専門家に郵送して測定してもらうのも一つの方法ですね。


ちなみに我が家では真空管アンプのスイッチのオン・オフは慎重にしており、1時間以上家を空けそうなときはオフ、それ以外のときはオンの状態にしている。

したがって、家の近くをウォーキングするときはスイッチを入れっぱなしだが、
これって夏の時期のエアコンと一緒ですね(笑)。

最後に・・、このほど新規参入をはたしたプリアンプだが常用しており、非の打ち所がない仕上がりでべテランのアンプビルダー「N」さん畢生(ひっせい)の傑作だと思うが、惜しいことにスイッチ・オンするたびに「ノイズ」が出てきて10分ほどするとピタリと収まる。


原因は「電源トランス」と「シャーシ」の取り付け位置に起因するそうで、修繕は無理~。

そこで、対策として毎朝起き抜けにスイッチ・オンし、16時間点けっぱなしで就寝時にスイッチ・オフしている。

真空管の寿命にとって有害な「長時間の連続使用」と「頻繁なスイッチのオン・オフ」との
相反する実験ともいえるわけで、はたしてどういう結果になるか興味津々である。

な~に、使っているミニチュア管「12AU7」は有名どころを山ほど持っているので大船に乗ったつもりだけどね・・(笑)。



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「頭の体操」へチャレンジ

2024年08月15日 | 独り言

いやあ暑い暑い・・、もう身体を動かすのも億劫になるし、頭のほうも なまって しまう。

そこで、「頭の体操」といきましょう。



ここ1か月ほど折を見て取り組んでみたけど、簡単な問題もあればややこしいものもあったりして紆余曲折だったが、結果として別に頭の回転が良くなったわけでは無く、身についたのは「根気と集中力」だけだったように思う。

はじめのうちは、ちょっとひねった問題に当たるとすぐに注意散漫になって気が散っていたのだが、そのうち慣れてくるとじっくり腰を据えて考える「クセ」がついたような気がしている。

ちなみに「手こずった問題」をいくつか挙げてみよう。読者の皆様もこの猛暑の中、頭の体操と思ってぜひチャレンジしてみてください。

解答は末尾に記載しています。

 4つのヒントから共通して連想できる単語をひとつ見つけてください

 「石」「はさみ」「紙」「あいこ」 → ?

 「力士」「海」「岩」「調味料」 → ?

 「工事」「野球」「アメフト」「安全」 → ?

 左端から順に言葉を連想していき右端の言葉につなげてください

 「マフラー」→「  」→ 「  」→ 「  」→「砂漠」

 「ウォーキング」→ 「  」→ 「  」→「  」→「カヌー」

 「コピー機」 →「  」→「  」→「  」→「総理大臣」

 「鏡」→「  」→「  」→「  」→「スマートフォン」

 「インフルエンザ」→「  」→「  」→「  」→「時計」

3 指定された数字を1回ずつ使って計算し、答えが「10」になるようにしてください。

<例題>指定された数字 「5」「2」「4」「9」「6」

計算方法がこれ ×=36 36-=30 30÷=15 15-10

 「4」「7」「5」「8」「6」

この問題を解くのに実に2日掛かりでしたよ(笑)。

<解答編>

 「じゃんけん」「」「ヘルメット

 「マフラー」→「暖かい」→「ドライヤー」→「乾燥」→「砂漠」

「ウォーキング」→「」→「流れる」→「」→「カヌー」

「コピー機」→「印刷」→「紙幣」→「伊藤博文」→「総理大臣」

「鏡」→「反射」→「」→「通信」→「スマートフォン」

「インフルエンザ」→「予防接種」→「注射」→「」→「時計」

 「=1」「1×=5」「5×=40」「40÷=10」

答えは一つとは限りません。たとえば、次のとおり。

=12 12+=20 20-=14 14-=10

いかがでしたか?

もしかして、(このブログを)二度と見るのも嫌という方がいたりして・・、どうか次の画像でご機嫌を直してくださいな~(笑)。



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「現状に飽き足らない貪欲さ」が左右するものとは

2024年08月14日 | 音楽談義

先日のこと、NTTの光テレビ「時代劇専門チャンネル」で黒沢明監督の名作「七人の侍」を放映していた。

過去、何度も観た映画だが今回もつい惹きつけられてしまい、3時間半もの大作を一気に見終った。いやあ、とても面白い!

映画に求められるあらゆる要素がびっしり詰まっていて、改めて黒沢監督(故人)の偉大さに思いを馳せたが、折しもBS放送の「昭和偉人伝」(1時間もの)で黒沢監督特集をやってた。

その中で「七人の侍」の製作裏話が披露されていたが、当時の俳優陣で最後まで生き残られた「土屋嘉男」さん(現在では故人)が出演されていた。

妻を野武士にさらわれた苦悩を一身に背負う難しい役どころで、百姓の中で武闘派の急先鋒となっていた「利吉」の役柄である。

この番組の中で黒沢監督の映画につきものだった俳優「三船敏郎」(故人)と同監督との訣別に至った理由などが明かされ、興味深い話が満載だった。

それはそれとして、ここで話題にしたいのは芸術家にも二つのタイプがあるようで、年齢を重ねるにつれて才能をますます開花させる「才能昂進型」と、一方では才能がますます朽ち果てていく「才能枯渇型」とがあるように思える。

たとえば、後者の例として挙げられるのが冒頭の「七人の侍」だ。見終ったときに「こんな完璧な作品を若い頃に作ったら後が大変だろうなあ」というのが正直な感想だった。

事実、黒沢監督は以後、この作品を越える映画を作れなかった(と思う)。後年の映画にはいずれも緊張感の持続性というのか、根気が続かない中だるみの印象を受けるのは自分だけだろうか。

晩年には「自殺未遂」騒ぎまで起こしているが、理由はいろいろあろうが、この才能の「枯渇現象」が一因であったことは想像に難くない。

芸術家にとって「命」ともいえる閃きが加齢とともに失われていく苦しみと悲しみは自分のような凡人にはとても想像がつかないが、一方では加齢とともにますます才能を開花させていく芸術家だっている。

江戸時代の浮世絵師「葛飾北斎」がそれだ。今や「神奈川沖浪裏」に代表される「富岳36景」などで世界の「北斎」になっている。

    

88歳という当時ではたいへんな長生きの生涯だったが「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」とある。

死を目前にして、現状に満足しなかったその意気たるや凄い!

作曲家モーツァルトも35年の短い生涯だったが、わずか10代の頃にあれほど優れた作品を残しておきながら益々才能を開花させていき、とうとう亡くなる年に作曲したオペラ「魔笛」が彼の生涯の集大成となる最高傑作となった。

はたして最高傑作かどうか、論議がいろいろあろうが文豪「ゲーテ」や楽聖「ベートーヴェン」が最高傑作だと言ってるのだからそう決めつけてもおかしくはないだろう。

その一方、作曲家でも「才能枯渇型」が居ることはいる。それは北欧フィンランドが生んだ国民的作曲家「シベリウス」(1865~1957)。

とても長い生涯だったが、40歳ごろを境にプツンと才能が切れてしまった。ご本人の慟哭たるやいかばかりかと思うが、92歳まで生きたのだから過去の栄光にしがみつきながら意外とのんびり余生を送ったのかもしれない(笑)。

以上、こうしてみると「才能枯渇型」と「才能昂進型」の二つのタイプの芸術家を分かつものはいったい何だろうか?

もちろん、持って生まれた資質もあるんだろうが、意欲というか向上心とでもいうか、どうも根っこには「現状に飽き足らない貪欲さ」があるような気がしてならない。皆様はどう思われますか?

文豪「森鴎外」の名作「高瀬舟」には「罪人・喜助の 足るを知る ことの崇高さ」が見事な筆致で描かれているが、こと芸術に関しては「足るを知らない貪欲さ」が必要なのかもしれない。

オーディオもしかりだと思うが、ちょっと手前味噌かな~(笑)。

それはさておき、前述のシベリウスには代表作として「ヴァイオリン協奏曲」がある。彼の才能がプツンと切れる前の37歳の時の作品である。

           

上段左から順に「ジネット・ヌヴー」盤、「カミラ・ウィックス」盤、「ダヴィド・オイストラフ」盤、下段左から「ヤッシャ・ハイフェッツ」盤、「サルヴァトーレ・アッカルド」盤、「ヒラリー・ハーン」盤の6枚。

この曲の聴きどころは「北欧フィンランドのリリシズム、透明な抒情とほのかな暖かみ、強奏するときのオーケストラが常に保持する暗い、激しい響き。これらはシベリウスの音楽を愛する者を直ちにとらえる要素である」(小林利之氏)だそうだ。

この中で一番好きなのは「アッカルド」盤でオケの指揮がコリン・デーヴィスだが、シベリウスには定評のあるところでたしかに申し分のない演奏とお見受けした。

ヌヴー盤もさすがで、第二楽章はダントツといっていいくらいだが、もっと録音とオケが良ければ言うことなし・・、惜しい。

カミラ・ウィックス盤は、シベリウスが存命中に「これが一番私の作曲の意図を再現している」と作曲家ご本人が推奨した曰くつきの演奏だが「老いては駄馬」(失礼!)だった作曲家の言うことにしばられる必要はないだろうと、それくらいの印象だったけど、あの五味康佑氏さえもが名演奏として挙げられているので、おいらの鑑賞力不足なのかなあ~(笑)。

オイストラフ盤とハイフェッツ盤は巨匠同士だが何だか新鮮味に乏しい。

最後のヒラリー・ハーン盤は期待したほどではなかった・・、「プレイズ     バッハ」でたいへんなテクニックを披露したものの、同時に若さを露呈した感じのハーンだが、この盤でも まだまだ の感がする。

後年のブルッフのヴァイオリン協奏曲の方がずっといいと思うのは自分だけだろうか。

ただし、未完の大器の雰囲気を感じさせるところがあるのはさすがで、それには、主たる活動拠点をアメリカからクラシックの本場ヨーロッパに移した方がいいと思うが、これは素人風情の余計なお世話かもね~(笑)。



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クラシックもジャズも両方いける二刀流

2024年08月13日 | オーディオ談義

前々回のブログ「てんやわんやのプリアンプ騒動記」からの続きです。

周知のとおり、オーディオはレコードやCDなどの機器に始まって、プリアンプ、パワーアンプそしてスピーカーと一連の流れによって構成されているが、
もちろん部屋の大きさや電源対策そしてケーブルなども無視できない。

いわば、これらは全体的に一つの組織的な繋がりを持っているので、どこか1か所でも変わるとほかの機器へと波紋が広がっていく。

その波紋を楽しむのが「オーディオの妙味」といえるのかもしれないですね。

で、その波紋の影響度の方に移ると・・、順番を付けるのは無理だけどあえて挙げるとすれば我が家では、まず「スピーカー」、その次は「プリアンプ」じゃなかろうかと思っている。そのくらい「プリアンプ」による音の変化は著しい。

そこで、このたびひょんなことから極上の仕上がりを見せたこのプリアンプの登場。以下「12AU7」プリとしよう。



我が家にはこのプリを含めて5台のプリアンプがあるが、今のところこれまで1位を占めていた「E80CC」プリとまったく肩を並べる勢いとなっている。

中高音域の透明感は「E80CC」が上、そして音を押し出す力は「12AU7」が上という印象かな~。

そこで、この2台のプリアンプの個性を活用する格好のシステムの登場となる。



ウェストミンスター(改)を中心とした「2ウェイシステム」である。

クロスオーバーは700ヘルツでハイカット(ムンドルフ製のコイル)、そしてウッドホーンの方は2000ヘルツでローカット(ウェスタン製のオイルコンデンサー)した。

そこで、此度の押し出し力の強い12AU7プリを「700ヘルツ以下」に使い、澄み切った中高音域の「E80CC」プリを「2000ヘルツ以上」で使おうという算段~。

すでにお気付きのように「700ヘルツ~2000ヘルツ」まで周波数の間が空き過ぎの感があるが、その辺は大きなボックスの響き、そして「12AU7プリ」と「パワーアンプ」の強力なコンビでカバーしようという魂胆である。

で、プリアンプも変わったことだし(ウェストミンスター用として)使えそうな「パワーアンプ」を2日がかりで台の上に上げたり降ろしたり・・、何と9台ですぞ~。

「パワーアンプ」は「プリアンプ」次第で生きもすれば死にもするが、これまでパーアンプに持っていたイメージが様変わりして、その変化についていくのがもう大変~(笑)。

その結果、辛うじて生き残ったのが「PP5/400」アンプ、「2A3」アンプ、そして「6AR6」(凸型プレート:三極管接続)の3台だった。

前二者はこれまでも安心できるアンプだったが、すっかり生気を取り戻したのが「6AR6」アンプだった。



低音域がかっちり締まった力強さと適度な伸び、そして微妙な繊細さを両方兼ね備えた印象で、プリアンプとの相性が抜群・・、ただし画像左側の「前段管」を「CV569」(STC)から「6SL7」(GEニッケルプレート:クリヤトップ)に代えた効果もあるかもしれない。

この音なら「クラシック」も「ジャズ」も両方いける二刀流だなあと大満悦~。

ちなみに、調子に乗って「E80CC」プリアンプもカップリングコンデンサーを「マイカコンデンンサー+フィルム・コンデンサー」からフィルムコンデンサーを
「スプラグの「ビタミンQ」(0.22μF)に交換してルンルン気分~。



最高で~す!

最後に、プリアンプの改造に多大のご労苦を賜ったNさん、どうもありがとうございました。

「好事魔多し」とは失礼な言い草ですが、早くお宅へお伺いして改造費を支払わないと・・(笑)。


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生命の暗号を聴く

2024年08月12日 | 音楽談義

通常、音楽の効用といえば、ストレス解消や癒し、あるいは精神の高揚などが言われているが、それ以外にもたとえば乳牛にモーツァルトの音楽を聴かせると乳の出が良くなったとか、あるいは酒の酵母を活性化させて発酵を促進するなどの不思議な現象の話も散見する。

その因果関係については科学的な根拠がハッキリと示されたわけでもないので「偶然の産物」とか「眉唾モノ」という受け止め方が一般的だ。

しかし、こうした生物と音楽とを結びつける不思議な現象の「科学的根拠」として提唱されているのがここで紹介する
「生命の暗号を聴く」だ。

 

これをうまく利用すると人類の宿敵「ガン」を撃退できるというのだ。今や国民の2人に1人がガンになるというのだから放っておく手はない。

というわけで、以下やや ”理屈っぽくなる” が順を追って紹介してみよう。

ただし、最終的にこの内容を信じる信じないはまったく貴方の自由・・、決して押し付けるつもりはないので念のため申し添えます!

☆ 「音楽の不思議な力の由来」について

「音楽」とは一体何か。音楽を知らない人はいないのに、言葉で説明しようとするとうまく説明できないのが音楽だ。(そもそも音符を言葉で表現するなんて、どだい無理な話だ。)

まず、音楽の起源について。

中国では音楽を意味する文字として「樂」という語が一般に用いられていた。「樂」は象形文字で、楽器とそれを載せる台の組み合わせでできている。上辺の中心文字である白という字が鼓を象(かたど)っているとすると、太鼓のような楽器を叩いて音を出したことが、音楽という概念が生まれるきっかけになったとも考えられる。

西洋に目を転じると、「音楽」に対応する英語は「ミュージック」である。その語源をたどっていくと、ギリシャ語の「ムシケー」に行き着く。

これは「ムーサの技芸」という意味で、これに対応する英単語が「ミューズ」(学芸をつかさどる女神)→「ミュージック」(ミューズの技芸)となる。因みにミューズの女神を祭った場所が、美術館や博物館を意味する「ミュージアム」である。

ミューズ(女神)は全部で9人いる。いずれも神々の頂点に立つゼウスと記憶の女神ムネモシュネとの間に生まれた娘たちである。それぞれ、天文学、喜劇、舞踊、宗教音楽、悲劇、音楽、歴史、叙事詩(2名)を担っている。

(音楽には終始優しい女性的なイメージがつきまとっているがこの辺に由来しているのかもしれない)

なお、天と地の結びつきによって生まれた女神ムネモシュネ(天空の神ウラノスと大地の女神ガイアの娘)がミューズたちの母であるというのは音楽の意味を考える意味で示唆的である。

アフリカでは「音楽は神々の言語である」と見なされているし、カトリック・キリスト教でも、「音楽は天国の言語であり、それを人間が発見して真似したのが教会音楽である」とされている。

音楽が天と地をつなぐものであれば、神秘的な力を持っているのは当然で音楽の不思議な効果は古今東西を問わず、物語の形で多数残されている。

☆ 「細胞が奏でる音楽」
とは

こうした不思議な効果を持つ音楽と生物を科学的に結びつけるカギがステルンナイメール博士(素粒子論を専門とする理論物理学者)による「タンパク質の音楽」の発見である。

ご承知のとおり、タンパク質は生物の身体を構成する基本材料である。細胞の中で必要に応じて必要なタンパク質が合成されるから生物は生きていける。

たとえば皮膚のコラーゲン、髪の毛や爪のケラチン、赤血球に含まれるヘモグロビン、それに血糖値を下げるインスリンなどの酵素もそうだが、これらは壊れては新たに合成されるという新陳代謝によって生まれ変わっている。

ステルンナイメール博士によるとそれぞれのタンパク質は独自のメロディを持っているという。「コラーゲン」という題名の曲、「インスリン」という題名の曲があるというのだ!それぞれの曲はDNAの中に「生命の暗号」として隠れている。

DNAが四種類の塩基からなることはよく知られている。A=アデニン、T=チミン、G=グアニン、C=シトシンである。これらの塩基が決められた順番で並ぶことで一種の「文章」が作られている。つまりDNAとは四種類のアルファベットでできた書物であり、「辞書」を作ればそれを読んで理解できるようになるはず。

ステルンナイメール博士は理論的な研究に基づき、同じDNAという書物を文章としてだけでなく音楽としても読めることを発見した。タンパク質のアミノ酸配列を解読してメロディに変換する規則を見出すとともに、そのメロディの持つ意味まで明らかにした。その規則にしたがって得られたメロディを「タンパク質の音楽」と呼ぶ。

ひとつのタンパク質には合成を盛んにするメロディと合成を抑えるメロディとがあって、それぞれ独自の非可変式チューナーがあり、そのメロディを同調させて電磁波に変換して細胞に伝えていくという。

まあ、平たく言えば音楽の中にも「ガンを促進する曲」と「ガンを打ち消す曲」があるというわけ。

好きな音楽を毎日聴きながらガンを撃退できれば言うことなし・・。

という調子だが、この猛暑の中で「理屈っぽい話を・・、いい加減にしろ」という声が聞こえて来そうなので、この辺で打ち止め~(笑)。


続きに興味のある方はご一読をお薦めします。



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てんやわんやの「プリアンプ騒動記」

2024年08月11日 | オーディオ談義

「オーディオの楽しみ」っていろいろあると思うけど、それほど期待もしてなかった機器が改造の結果、絶大な効果をもたらしたときの「うれしさと驚き」もなかなか捨てがたいものがあるようですよ~。

話は3週間ほど前に遡る。

あるオーディオ仲間が「これオークションで落札したんだけど、聴いてみない・・」、とプリアンプを持ってきた。

「鳴らすくらいなら、いいよ」と気軽に応じ、さっそく接続して鳴らしてみたところ、ノイズだらけだし音質も冴えない。

「さあ、どうしようか・・」と、仲間に相談したところ「煮て食おうと焼いて食おうと好きにしていいよ」「ああ、それなら知り合いに頼んで修繕してもらうことにするけど、それでいい?」「いいよ」と話が成立。

その時点で、まさかこのプリアンプが「大化け」するとは夢にも思わなかった。

「簡単な修理をしてもらい、それからオークションにでも出して経費を差し引いた額を山分けしようかな・・、真空管式のプリアンプはかなり人気があるし~」ぐらいの発想だった。

で、改造をしてもらおうと持ち込んだのはベテランのアンプビルダーの「N」さん(大分市)で、若い頃は新日鉄で「設計業務」に従事されていたほどの「緻密」な技術屋さん・・、我が家のアンプも「71A」アンプ(2台)や「EL34プッシュプル」などの改造をしてもらっており、極めて信頼のおける方である。

現物を持ち込んで「どうですか?」と、相談したところ「これはひどいなあ・・、アース回路が出鱈目だし、まったくの素人が作ったものでちょっとした手直しぐらいでは済みそうにないね・・、徹底的に一から組み立て直すか、それともおざなりの修繕に留めるか、どうする?」

「はあ~、現在プリアンプを4台持っているしこれ以上増やすつもりはないんですけど、もう乗りかかった船だし・・、徹底的にやってもらいましょうかね、部品代と手間賃はお支払いしますから~」と、思い切って決意表明した。

実は「N」さんの「技術者魂」を見越してのことで、中途半端な仕事は嫌いだし出来ない方でもある、また、いつもリーズナブルな経費で終わるのでその辺の安心感も拭えない(笑)。

そして、待つこと3週間あまり、「出来上がったよ~、全面改修ですべて既存の部品を外して新しい回路で組み立て直したからね。真空管は12AX7(2本)から12AU7(2本)に代えているからね。とても澄んだ音が出ているよ~・・、今から持っていくからお宅のシステムで聴いてみよう」

たいへんな自信作のようで言葉の節々からそれが聞き取れる・・、「ああ、それは良かったです! どうぞお待ちしてます」

それは9日(金)午後のことだった。

そして、実際に音出しして仰天した!

「これは素晴らしい・・、ノイズはまったくしないし透明感が半端ないです、掛け値なしにいい音だと思います、我が家でも一位、二位を争うプリアンプですね~、これは・・」

「カップリング・コンデンサーにフィルム型を使ってるけど、定評のあるSPRAUGE(スプラグ)のビタミンQあたりを使うともっと重厚感のある音がしそうだけどね・・、プリアンプは部品でほとんど決まるからね。」

「エッ、SPRAUGEならビタミンQではないけど、0.49μFを2個持ってますよ!」「オッ、それなら値もちょうどいいし、付け替えてみる価値が大いにあるね」。



下側のブルーのコンデンンサーが外したもので、内部の手前側にある左右のメタリックのコンデンサーがSPRAUGEのオイル・コンデンサーである。

さあ、期待の音出しである。

一聴するなり、思わず椅子から転げ落ちそうになった・・(笑)。

以下、続く。


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真夏の読書の楽しみ

2024年08月10日 | 読書コーナー

日没後のウォーキングで会う人ごとに「今年の夏は異常ですね!」と口にされる。

「そうですね、お盆が過ぎると少しは涼しくなるんじゃないですか」と返しているが、そのお盆がもうすぐやってくる。

あと少しの辛抱だが、心なしか夜が少し涼しくなった気がする・・、しかし日中となるとまだ暑くて、出かける気にもならず「読書三昧」「オーディオ三昧」が続いている。


☆ 「最高齢プロフェッショナルの教え」

             

漫画家、パイロット、ギター職人など、「その道」を極めた最高齢のプロフェッショナルたち15名の人生哲学を収録した本。

最高齢というだけあって、年齢的にも最高が103歳、90歳代が5名、80歳代が7名と後期高齢者が大半を占める。

さすがに、並外れた苦労を実際に積み重ねて来られた方々だけに、その人生観も浮ついたものがなくズシリと胸に響いてくるものがある。大いに感銘を受けた。

いずれの方々ともに、若い頃に人生設計とかの細かい計算をせずに、ただ「無我夢中になって打ち込む」、「人との出会いを大切にする」、「破天荒とも思える冒険をする」、そして「結果なんて後からついてくる」という前向き思考が共通点だった。

また男性陣は年齢からして若い頃に「兵隊」にとられた方が多くて、あのときの理不尽な鍛われ方に比べると、どんな苦労だって ”へっちゃら” という言い方が目に付いた。

こういう「たくましい」人たちの話に触れると「自分はマダマダ甘い」とツイ反省してしまう(笑)。

一番興味を惹かれたのは「ギター職人」の「矢入 一男」氏〔78歳)。

「ヤイリギター」の創設者で、これまでギターのブランドには疎くて「ギブソン」ぐらいしか知らなかったが、「ヤイリギター」は海外の著名人も使っているブランドと初めて知った。

コメントの中にこういう行(くだり)があった。

「そのへんの安いギターは丈夫な合板でできています。でもヤイリギターのもとになるのは、天然の木そのままの無垢材です。そうなると、いい音で鳴るギターを作る以前に、壊れないギターをつくることが問題になります。」

「壊れないということは丈夫だということだ。しかし、丈夫だということは、ギターがよく鳴らんということでもあります。そこで試行錯誤しなけりゃならない。いい音で鳴る繊細な”つくり”をしていて、しかも壊れないギターが目標です。」

ポイントは「丈夫さ」と「いい音」とは基本的に両立しないことが当たり前のこととして実体験的に述べられていること。

楽器とスピーカーは似たようなものなので、これは何だかオーディオにも通じるような話。

たとえば許容入力が大きくて、まるで工業製品みたいな頑丈なユニットからは大味な音しか出てこない。

したがって「丈夫さ」と「いい音」の両方が手に入ると考えるのは間違いで、このあたりは「オーディオの盲点」ではなかろうか、とさえ思う。


最後に103歳の声楽家「嘉納 愛子」さんの言葉を。

「103年、生きていて思うのは”人生は公平だ”ということ。苦労したら同じだけ、恵みがあるんです。」

はたして、そうだろうか‥(笑)。


☆ 「黒い家」

                

貴志祐介氏の作品はほとんど読んでいるが、どうしてこんなに面白いんだろうと、堪能しながら息もつかせず読ませてもらった。

第4回日本ホラー小説大賞受賞作だが、「恐怖の連続、桁外れのサスペンス、読者をいまだかってない戦慄の境地へと導く衝撃のノンストップ長編」という宣伝文句は決して誇張ではない。

主人公は生命保険会社で保険金支払いの査定を担当しており、保険金を騙し取ろうというワルたちと次から次に対面する。

そして、とうとう、ある顧客の家に呼び出され、子供の首吊り死体の第一発見者になってしまう。それからが信じられないような悪夢の連続。

この顧客が悪魔のような人物で、保険金目当てに自分の子供を殺して自殺に装ったり、夫の両腕を切断して保険金詐欺を目論んだりという極悪非道ぶり。

最後には命をかけた凄惨な対決となるが勧善懲悪で終わるのがせめてもの救い。

とにかく、途中であまりの怖さに該当部分をつい飛ばし読みするほどの迫真性がある。

また著者は作家になる前に社会で組織勤めをしたことがあるだけに、仕事への取り組み方とか上司と部下の間の機微に触れる描き方が実にうまい。

「ホラー小説大賞」に恥じない作品なのでまだ読んでない方は是非ご一読を~、スリル満点で背筋が凍りつくので真夏向きの本です。

☆ 「作家の値段」

                

著者の「出久根 達郎」氏は作家と古書店主をかねておられる方。

本書は「藤沢周平」氏から「吉行淳之介」氏まで24名の作家たちの初版本を中心に市価の状況を詳細に記した本。

基本的に初版当時のままの美本、帯付きの状態での価格になるが、どなたの家でも意外と押入れの中から簡単に発見できそうな本が実は何万円もしているというのが新鮮な驚き。

本書を読むと、とても十把ひとからげで古書を廃品回収に出す気になれず事前に綿密に調べたくなるほどだが、ちなみに高額な値のついた主な作品を興味のある作家、一作品に絞って挙げると次のとおり。

大仏次郎(「ふらんす人形」昭和7年新潮社刊、帯付きで60万円以上)

谷崎潤一郎(「小説二編」大正4年、三生社刊、函付きで50~60万円)

芥川龍之介(「羅生門」大正6年、阿蘭陀書房刊、25~30万円)

井上靖(「闘牛」昭和25年、帯付きで35万円前後)

なお中年以降の方々が「青春の書」として挙げるであろう「あすなろ物語」(新潮社)は昭和29年の帯付きで2万~2万5千円。これなんか、もしかするとどこかにありそうな感じ。

松本清張(”或る小倉日記伝”収録の「戦国権謀」昭和28年、15万円前後)

萩原朔太郎(「月に吠える」大正6年初版本で200万円)

井伏鱒二(「父の罪」大正13年、60万円)

与謝野晶子(「みだれ髪」明治34年、130~150万円)

中原中也(「山羊の歌」70~80万円)

開高健(「あかめであ めらんこりあ」昭和26年、40~45万円)

手塚治虫(「新宝島」初版500万円)

さすがにこの辺のレベルになるとやっぱり「在りそうに無い」のが「稀観本」たる所以かなあ。



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正直に言いなさい

2024年08月09日 | 独り言

日頃から情報発信をやっていると、有難いことに見知らぬ方からときどきメールをいただく。

昨日(8日)も氏名不詳の方からいただいたが興味深い内容だったので紹介させていただこう。タイトルは「正直に言いなさい」。

「ある時、父さんが家にロボットを連れてきた。
そのロボットは特別で、ウソをついた人の顔をひっぱたくって言う物騒な代物らしい。
そんなある日…。
僕は学校から帰宅するのがかなり遅くなってしまった。
すると父がこう尋ねてきた。
「どうしてこんなに遅くなったんだ?」
僕は答えた。
「今日は学校で補習授業があったんだよ」
すると驚いたことに、ロボットが急に飛び上がり、僕の顔をひっぱたいた。
父は言った。
「いいか、このロボットはウソを感知して、ウソついた者の顔をひっぱたくのさ。さあ、正直に言いなさい」
「ごめんなさい…父さん。実を言うと子供がみてはいけない映画を見てたんだ」
「何て低俗な映画を見てるんだ、恥を知れ!いいか、父さんがお前くらいの頃は、そんな映画を見たり態度が悪かったことなんて無かったんだぞ」
するとロボットはきつい一発を父に食らわせた。
それを聞いていた母が、キッチンから顔を覗かせるとこう言った。
「さすが親子ね、あなたの子だけあるわ」
母も顔をひっぱたかれた。」

アハハ、最後の落ちが強烈ですね・・。

そういえば・・、「托卵割合」と検索すると「1割には満たないが、およそ20人に1人の女性が夫以外の男性とつくった子供を内緒で育てている」のだそうですよ。ウ~ン、事が事だけにかなりの確率です!

で、恐る恐る我が家のケースでは・・、一人娘だが親父に似て「メチャ読書好き」なので、血は争えないと楽観しておくことにしよう、オーディオ好きだと確定なんだけどな~(笑)。

さらには、中国の古典「詩経」にも「七人の子を生すとも女に心許すな」という言葉がある。

言わんとするところは、「
七人の子をもうけるほど長年連れ添った妻にも、気を許して大事な秘密を打ち明けてはいけない。女には気を許すなということ。」

いやはや女性蔑視もここまでくると・・(笑)。

しかし、外野席から「女性だからといってバカにするな!」という声も聞こえてきそう。たしかに「女傑」もいる。

日本の中曽根首相の時代にイギリスに「サッチャー」という女性の首相がいた。「鉄の女」と称され「フォークランド」諸島の領有権をめぐってアルゼンチンとの武力闘争をためらうことなく遂行したのは有名。



1925~2013

で、去る7月17日のNHK BS「プレミアム シネマ」(13時~15時)で「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を放映していたので録画してこのほど観たばかり~。

名作だと思います! 主演の「メリル・ストリープ」がアカデミー主演女優賞をもらってます。

最後に、女性といえばこのほどアメリカの大統領候補(民主党)にハリスさんが正式に決まったけど、もし大統領になったときはロシアや中国に対して毅然とした態度をとって欲しいなあ・・、まあサッチャーさんの例もあることだし杞憂に終わることだろうが。

そうじゃないと中国軍が足元を見透かして「尖閣諸島」に押し寄せてきますぞ!(笑)。



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「うっぷん晴らし」のオーディオ

2024年08月08日 | オーディオ談義

「危険を避けるのではなく安全を避けなければならない。実を言うと、演技には失敗も成功もない。失敗だって成立する。問題は、どんなことにこだわり、どれだけ自分を投げ出せたか、ということなのだ。」

フ~ム・・、なかなか かっこいい 言葉ですね、前々回のブログで紹介した俳優「山崎 努」さんの哲学~。南スコットランド在住の「ウマさん」からも共感のメールをいただき、さっそく著書「柔らかい犀の角」を手配された由~。

誰もが危険を回避し、できるだけ無駄を排除した合理的で安全な道を模索する中で、静かな池面にポチャンと一石を投じたような波紋が広がっていく・・。

なにしろ一度きりしかない人生なんだから誤った選択をして「
挽回不可能の失敗」はしたくないし、それかといって冒険なしの安全運転に終始した人生というのもちょっと淋しい気がしますわいなあ~。

で、人間を大きく「大胆派」と「慎重派」に分けるとすると、ほんとうは前者がいいんだけど仕方なく後者に比重を置かざるを得なかった人たちのほうが圧倒的に多いんじゃないかな・・、実はブログ主がまったくそのとおりでその悔恨への反動というのか、せめてもの「うっぷん晴らし」になっているのが「オーディオじゃないかな」という気がしている(笑)。

いつも大胆に「やりたい放題」・・、6系統のスピーカーを次から次に弄り回し、一時的にしろ音質に満足したかと思えば、それを土台にしてさらに「高み」を目指していく・・、ときどき痛い目を見るくせにまったく懲りる気配を見せない(笑)。

今回もそうだった・・、その対象となったのがこのスピーカー。



我が家の基本形は、「フルレンジのユニットを中心にして、高音域と低音域をわずかに付け足す」というやり方・・、ただし「眉を顰める方」がいてもちっとも不思議ではないと思っている(笑)。

で、今回の新たな試みといえば「ツイーター」に「075」(JBL)を追加したことだが、ネットワークにひと工夫~。

おっと・・、「ネットワーク」といっても我が家ではそれほど御大層な代物ではなく「スピーカー」コードのプラス線に「コイル」や「コンデンサー」を挿入するというごく簡単なもの。

今回はコンデンサー(ウェスタン製:1μF)を挿入して理論上「2万ヘルツ」でローカットした。



で、ツィーターのネットワークに「マイカ・コンデンンサー」を付け加えると音の「鮮度」が向上する・・、これって定石ですよね!

で、今回新たな発見があって、画像のようにスピーカーに近い方に「マイカ」を使った方がより鮮度が向上した。逆はダメ・・、そんなこと、とっくの昔に知ってるよという人にはゴメン(笑)。

で、惚れ惚れするような音に変身したので、「柳の下の二匹目のどじょう」を狙って、「TRIAXIOM」にも同じことをやってみた。



これは素晴らしい、と臆面もなく自画自賛~(笑)。

高音域の鮮度にやや欠けていた(もちろん、それがいいという人もいるが・・)「TRIAXIOM 」が水を得た魚のように躍動した。

忘れっぽいので、後日のために接続経路を記録に残しておこう。

<TRIAXIOM>


DAC「フェーズメーション:192KHz」 → プリアンプ「E80CC」 → パワーアンプ「PP5/400シングル」

<サブウーファー>(AXIOM150マークⅡ:100ヘルツ以下)

DAC「D2R」 → プリアンプ「安井式」(改) → パワーアンプ「5AR4シングル」(三極管接続)

<ツィーター>(「075ツィーター」:2万ヘルツ以上)

DACとプリアンプは同上で、パワーアンプは「71Aシングル」

という陣容。



で、補足しておくと、プリアンプからの出力を2系統にすると、音に力が無くなるので肝心の「TRIAXIOM」だけは「1系統」に絞って使ったのがキモ~。

というわけだが、いくら「うっぷん晴らし」とはいえこの猛暑の中で汗水垂らしながら、ああでもない、こうでもないと右往左往・・、「ご苦労さん」と自分で自分を誉めたくなりましたぞ(笑)。


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健康づくりに王道なし

2024年08月07日 | 独り言

先日の夕食のときのことだった。

冷蔵庫を開けてから「あれっ、焼酎に入れるレモンを置いていたはずなんだけどなあ・・」

すると「アッ、ごめん、もう料理に使っちゃった」

「・・・・」

片や、しがない「年金暮らし」、片や「バリバリの現役」とでは立場と発言権に微妙な差があるのは
否めない。つまり最初から劣勢に立たされているというわけで、ま、いっか~(笑)。

この頃ようやく我が家の猫の額ほどの庭に植えている「カボス」の球が膨らみつつあるのでレモンなどの酸っぱい柑橘系の出番が無くなるのでついうれしくなる。

周知のとおり、カボスは大分県の顔ともいえる特産品である。

9月から本格的な収穫の時期になるが遠方の知人に送るとみんな喜んでくれるし、とりわけ奥様方に人気があるようだ。

昨日のこと、待ち遠しい思いとともにどれどれとカボスを1個採ってみた。



まだ小粒だけど、輪切りにして絞ってグラスに垂らし込んだところ少量だったけど酸っぱい香りがふわっと漂ってきて美味しく呑めたのでこれからはこのスタイルでもいけそう。

そういえば裏側の家からもカボスが付いた枝が我が家の庭に侵入してきている。独り暮らしのご老人は現在入院中で「いつでも好きなだけ取ってください」とお許しを得ているので、今年は「あらわざ」(芋焼酎)の出番が増えそう(笑)。

飲食の話題になったので、ついでに関係する本の紹介を~。



何しろ「がん、認知症、生活習慣病は食事で防げる」という見出しが図書館の新刊書コーナーで踊っていたのが目に入った。とても分厚い本である。

この種の本はこれまで「見出し」の割には内容がサッパリというのが多いのであまり期待せずに目を通したが、まあ可もなく不可もなしという感じだった。

かいつまむと、人間には健康を守るために備わった仕組みが5つあるという。

1 血管新生(血管の正常な生まれ変わりが病気を防ぐ)

2 再生(体をつくりなおす「幹細胞」を働かせる)

3 微生物叢(そう)(あなたの体を守る細菌を養う)

4 DNA保護(「設計図」を守る三つのシステム)

5 免疫(私たちの体を守る兵士たち)

これら5つの観点から、それぞれ有益な食べ物を紹介してあったが、膨大な食べ物が羅列してあって挙げるとキリがないので省略。

結局、何ら偏ることなくいろんな食べ物をまんべんなく採ればいいというのが結論で、「学問に王道なし」に倣って「健康づくりに王道なし」というわけです。

まあ強いて挙げるとすれば5つの項目に亘って登場していた目ぼしい食べ物といえば「赤ワイン」「大豆食品」「魚介類」「トマト」「ココア」「野菜類」「柑橘類」といったところですかね。

おっと、ウォーキング後の冷たい「ビール」もいいと思うんだけどなあ・・、今や「生き甲斐」になりつつありますぞ(笑)。



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「柔らかな犀(さい)の角(つの)」~読書コーナー~

2024年08月06日 | 読書コーナー

お隣さんの購読紙は「日経新聞」で我が家は「読売新聞」・・、新聞にも「品格」というものがあるとすればやはり前者の方が上だと思うが、家人が大の巨人ファンなので仕方なく現状に合わせている。

「老いては妻に従え」だからね(笑)。

で、「日経」を読みたいばかりにお隣さんに「1日遅れの新聞を交換しましょうよ」と、もちかけてから早いものでもう10年以上にもなる。

「日経」のどこがいいかというと、どこにも偏らない「政治・経済記事」の精確さに加えて「文化芸術面の記事」の充実度にあると個人的には思っている。

とりわけ、政財界、芸術界、スポーツ界などで功成り名を遂げた方々の生涯記ともいえる「私の履歴書」には必ず目を通している。

さすがに各界の一流の方々なので参考になることが多く、そして出自の方も「どこの馬の骨かわからない」という方よりも、由緒ある方のほうが圧倒的に多いように思える。

やっぱり、人間は何やかや言ってみても「遺伝が大きな要素を占めているなあ・・」と、自分とひき較べてみて諦めと悲嘆の境地に達しているのがホンネ(笑)。

そういう中で、去る7月の1か月間はある名門の不動産会社の会長さんが投稿されていたが、経済不況の中で都会の「大プロジェクト」を次から次に押し進める方だった。まさに「行けゆけ、どんどんタイプ」で、ものすごく馬力があって仕事熱心~。


それはそれでたいへん立派なことで、十分尊敬に値する方だと思ったが、読み進むにつれ、「仕事を取ったら何も残らないような人生」にある種の「物足りなさ」を感じるようになった。

言い換えると、サクセス・ストーリーにはもう飽きた・・、失敗談や人付き合い、音楽に熱中したりとか、そういう幅の広いエピソードが欲しいんだけど・・、ちょっと「無いものねだり」なのかな~(笑)。

その点、2~3年ほど前に登場された映画俳優「山崎 努」さんの「私の履歴書」は型破りだった。



己の失敗談を衒うことなくさらけ出して、実に柔らかであっけらかんとした表現で詳らかにされている・・、つまり「政財界に比べて芸能界の方が人間観察にかけては一枚上かな」という印象を持っている次第。

その山崎さんの著作が図書館の新刊コーナーで目についたので喜び勇んで借りてきた。週刊文春の好評連載「私の読書日記」6年分を収録したものだという。



いやあ、実に面白かった。内容はいろんな本を読んで(ものすごい読書量です!)、その感想をエッセイ風に書き記されている。

たとえば54頁にこういうことが述べられている。

「演技する上で大切なのは、危なっかしくやることである。失敗を覚悟で、どうなってしまうかわからないところへ自分を追い込んで行く。それが大事。失敗は正直怖いが、そのリスクを背負わない安全運転的演技などなんの価値もない。

危険を避けるのではなく安全を避けなければならない。実を言うと、演技には失敗も成功もない。失敗だって成立する。問題は、どんなことにこだわり、どれだけ自分を投げ出せたか、ということなのだ。」

どうです・・、これだけでも、とても「一筋縄ではいかない役者」さんというのがわかるでしょう。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というのか、これは、いろんなことに通じそうですよ~、ほら「演奏」や「オーディオ弄り」だってそうとは思いませんかね・・(笑)。

もう一つ紹介、91頁~。

養老孟司が「養老訓」で「年をとって良かったなと思うことが沢山あります」と言っている。年寄りは上機嫌で生きましょう。

じいさんは笑っていればいいのです、先日亡くなられた河合隼雄(かわいはやお)さんは、いつもニコニコされて駄洒落ばかり言っていました。人の意見を訂正することもなかった」という。

いつも、まず「そうですね」「なるほど」とイエスで受け止め、その上で穏やかに相手の言葉に寄り添うように話し出す。あれは真似ができない。どうしても、思わず「いや」「でも」と返してしまう。

大人(たいじん)と小人、器が違うのだから仕方がないが、とりあえず僕は話した後にニコっと笑顔を付け加えるよう努めている。それが気持ち悪いと言われたりするが。

老人はすべからく「上機嫌」で生きたいものですね!(笑)

そして最後に未練がましいがもう一つ~(327頁)。

赤瀬川源平が「健康半分」の中でこう言っている。

「怪我や病気で落ち込んでも、何か小さな未来の好きなことを先ず思い浮かべる。夜のプロ野球中継を期待したり、夕食はどうもオデンになるらしいぞとか、何か近未来の自分の楽しみを期待する。」

歳をとるとどうしても「頻尿」になる。赤瀬川は町でトイレを見かけたら、「まだ大丈夫」でも「後悔をしないように」必ず用を足すようにしているという。鳥は空を飛ぶために身を軽くしておかないといけない。

だから少しでも溜まると飛行しながら排泄しているらしい。老人は鳥に近づいているのだ、と思っておけばいいそうだ。

同感です!(笑)

そして、最後の最後にもう一つ~(399頁)。

ある老賢人がこんなことを言っていた。「毒」という字には「母」がいるぞ。男の子は母が死んでやっと一人前になるのさ。生きているうちはだめだね。とはいえ、おねしょに付き合ってくれた人の残像が消えて無くなることはない。

以上のとおり興味のある話が満載・・、読書好きの方にはぜひお薦めしたい一冊です!


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「ワーグナー」の音楽と熱中症

2024年08月05日 | 音楽談義

かってクラシック音楽好きが集まって試聴会(計4名)を開催した時に「ローマの松」(レスピーギ)というCDがあった。やっぱりというか、一度聴いたくらいでは良さがわからず、自分のレパートリーではとても及びもつかないような曲目だった。

そういえば、食べ物の好き嫌いと同じで、音楽も人によって嗜好に随分差があり、そっくり同じ曲目が好きだというケースは稀のような気がする。

たとえば自分の場合ではオペラ「魔笛」(モーツァルト)だが、一方では「こんな退屈極まりないオペラは大嫌い」という人がいたりする~、もちろんこれは「いい、悪い」という問題でもない。

音楽にも一度聴いてすぐに好きになる曲目があれば、何度でも聴いていくうちに好きになってくる曲目と二通りあるが、えてして、前者の場合、何回か聴いているうちに比較的早く「飽き」がくるが、後者は聴く度に新たな発見があったりして長期間の鑑賞に耐え得るケースが多い。

オペラは典型的な後者だと思うのだが、逆に開き直られて ”いったいオペラのどこがそんなにいいのか” と問われた場合にその魅力を適切に表現する言葉がすぐに浮かんでこず、何ともいえない ”もどかしさ” を感じてしまう。

そもそも音楽の魅力を口で表現するのは本質的に難しくて、なぜなら言葉(文字)で表現できないために音楽(音符)というものがある~。

しかし、そういう “もどかしさ” を解消し代弁してくれる恰好の本がある。

「ドイツオペラの魅力」(著者:中島悠爾氏、日本放送教会刊)

                                

この本は、冒頭から「魔笛」がドイツオペラの草分けとなる重要なオペラとしてしてかなりのページを割いて詳しく解説しているが、音楽理論というよりもオペラ愛好家の立場から素人向きに執筆されていて大変分りやすい。

クラシックには交響曲、協奏曲、室内楽、管弦楽、そして声楽などいろんなジャンルがあるがオペラはこれらと、どういう点が違うのだろうか、というわけで「オペラの特質」について以下のように書いてある。

☆ 演劇的な要素

オペラの特質の第一点は、演劇を通して、具体化された音楽を提供することにある。ドイツのソプラノ歌手エッダ・モーザー女史(1972年サバリッシュ盤:夜の女王)が自らの体験を踏まえて実に分かりやすい表現をしている。   

「オペラには舞台装置があり、衣装があり、演技があり、共演者たちがあり、そして色彩豊かなオーケストラがあって、私の歌う内容は視覚的にも聴覚的にもリート(独唱用歌曲)に比べ、はるかに容易に聴衆に伝わっていきます。いわば、オペラは自分の周りに既に半ば以上構築されている一つの世界の中で歌い、その世界を深めていけばよいので、リートよりは
ずっと楽です。」

☆ 人間の声という特質

第二点目は人間の声の特質である。声という音の素材はどんな楽器よりも直接的にはっきりと、また容易に人間のさまざまな感情を表現し得ることにある。

例えば舞台でヒロインが一人たたずむとき、あわただしく登場してくる人物に向かって「まあ、あなたでしたの」と発する、たった一言の中にはこのオペラの文脈に沿って、喜び、悲しみ、恥じらい、ためらい、皮肉、怒りなどごく微妙な心の表現が可能である。

これほどに直接的な感情の表現は人間の声以外のいかなる楽器にも不可能であり肉声という音素材の持つ簡単で直接的な効果、そしてそれを十二分に活用したオペラという形式はやはり最も分かり易く、身近で、一般にも親しみやすい音楽なのである。

というわけで、オペラの特質は以上の二点に尽きるが、オペラがレパートリーに入るとたとえ台詞の意味が多少分からなくても音楽の楽しみ方が倍増すること請け合い。

そういうわけで、長年親しんできたモーツァルトのオペラはひとまず脇に置くことにして、ここ3日ばかり「ワーグナー」のオペラに挑戦してみた。

手持ちのCDを「You Tube」のせいで「宝の持ち腐れ」にするのはもったいないし、さらにはスケールの大きな音楽で猛暑なんか吹き飛ばしてしまおうという魂胆である(笑)。


            

「ヴァルキューレ」(ショルティ指揮、4枚組)、「ジークフリート」(ショルティ指揮、4枚組)、「パルシファル」(クナッパーツブッシュ、4枚組)、「神々のたそがれ」(ショルティ指揮、4枚組)、「ラインの黄金」(ショルティ指揮、3枚組)

何せ一つの楽劇あたりにCDが3枚~4枚セットだから、時間にするといずれも4時間あまり~。

一通り聴いてみたが、乱暴な言い方を許してもらえれば、ひたすら「雄大なスケール感」を楽しむ音楽ということに尽きる・・、加えて劇中の人物になりきれる「自己陶酔型」に浸れればいうことなし。

となると、こういう音楽は「豊かな音」で聴くのが常道で、しかも「たっぷりとした中低音域」のもとで鑑賞したい・・となると、必然的に次のシステムの出番。



タンノイ・オートグラフを愛好していた作家の五味康祐さん(故人)が「我が家のオートグラフはワーグナーを聴くためにある」といった趣旨のことを著書の中で述べられていたが、あの深々とした低音なら “さもありなん” 、ただし、ほかの曲目ではあまり頷けない・・とは、これは個人的な意見です。

で、どうしても比較的大きめの音で聴くので、はた迷惑にならないように窓を閉め切ってエアコンを入れっぱなしでの鑑賞となったが、根がビンボー性のせいか電気代がちょっと気になる・・。

ただし、老人がワーグナーを聴きながら熱中症で亡くなったとなると、まったく様にならないしねえ(笑)。



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暮らしの中の「左右学」

2024年08月04日 | 独り言

スピーカーを弄るたびに思うのが、この繰り返しをもう1回やらんといかんなあ・・、ああ面倒くさい(笑)。

スピーカーを1台だけで聴いている方もいることは居るだろうが、大半が左右両チャンネルのステレオ方式ですから仕方がないですね~。これも、顔の左右に耳が付いているせいだろう。

人間にとって左右両方あるものって、「耳」をはじめ、「眼」「手」「足」ぐらいかな、いったいどうして二つあるんだろう・・、考え出すとキリがない。



私たちの日常生活の中であらゆる場面に影響を及ぼしている「左」と「右」との区分だけど、日頃、当たり前のことと受け止めて特に意識することはないが、改めてその意義に気付かせてくれたのがこの本。                 

著者は「小沢康甫」(おざわ やすとし)氏。

民間企業の勤務経験を持つごく普通の方で学者さんではない。個人的な興味のもとに長いこと「左右の探求」を両脇
に抱え込んで「病膏肓」(やまいこうこう)に入られた方である。

とにかくあらゆる分野にわたって「左」と「右」の概念が追求される。たとえば、「衣服の右前・左前」「男雛・女雛の並べ方」「野球の走者はなぜ左回りか」「人は右、車は左」「イスラムの右優越」など。

とても全部を紹介しきれないので興味を覚えた部分をごく一部抜粋してみた。

☆ 語源を探る

「右」 ”口”と”ナ”からなり、「口を使い、手を用いて相助ける意」。のちに”佑”(助ける)が本義となり「右」は単なる右手の意となる。

熟語として「天佑」「佑筆(貴人のそばで文書を書く人)」など。

「左」 工具の意を表す「工」と”ナ”からなる。のちに”佐”(助ける)が本義となる。工具を左手に持って仕事を助ける意。

熟語として「補佐」「佐幕」。

筆者註:こうしてみると我が県のお隣の「佐賀県」という県名はたいへん語源がいい。「賀(祝うこと)」を「佐〔助ける)」とある。それに比べてわが大分県は「滑って転んで大痛県」と揶揄されるのが関の山!(笑)

左右はとかく左翼・右翼のように対立の関係で捉えられがちだが語源をたずねると左右双方から人や物事を助けていく、或いは左右相補ってことが進む点にこそ真骨頂がある。

次に、言い回しの由来を記してみよう。

 左うちわ

安楽な暮らしのたとえ。利き手でない左手で仰ぐと力が弱く、いかにもゆったりしている。そこから差し迫っていない、余裕のある暮らしに意味を通わせた。同様の例として、最も信頼する有力な部下を指す「右腕」がある。

 トラック競技の左回り

現在、陸上競技の競争は「規則」により
「走ったり歩いたりする方向は、左手が内側になるようにする」とある。

根拠は不明だが有力な説が7つほどあって、そのうちの一つがこれ。

男性の場合、「睾丸」の左右のうち左の方が低い位置にあり、心臓が左によっていることもあって重心は左にかかる。走るには重心寄りに、つまり左に回った方が楽。

男性にとって日頃まったく意識しない「睾丸」の左右の違いを指摘されて本当に「目からウロコ」だが、これについては別項の「人体ウォッチング」にも次のようにある。

「睾丸」は一般に左の方が右よりも低い位置にある。大島清氏(生殖生理学)によると、その率は日本人で75%、米国人で65%。

その理由をこう述べる。

大半の人は右利き、つまり左脳優位であり右の挙睾筋〔睾丸を上げる筋肉)を収縮させるので右の睾丸が吊上がり、左側が相対的に下がった状態になる。つまり、左右の脳に差のあることが睾丸の高さの左右差をつくり、歩いても走っても激しい運動をしても、睾丸同士が衝突しないようにできている。

左右の睾丸が重なったりぶつかったりすれば、双方とも傷つく恐れがある。睾丸は精子の製造工場だから、これは由々しき一大事。左右差は子孫を残すための「天の配剤」といえる。

以上のとおり、本書は「左右」学の薀蓄(うんちく)極まるところ、通常まったく意識しない人体の微小な差異にまで及び、まことに新鮮味があって面白かった。

というわけで、自分(右利き)の場合、左足が右足に比べて「外反母趾」の傾向が強いが、どうして左足に重心がかかるのか疑問が氷解した次第(笑)。

皆様にも思い当たる節(ふし)がありますか~。



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「重厚な高音」と「爽快な高音」~真夏の競演~

2024年08月03日 | オーディオ談義

このところ「ぞっこん」惚れ込んでいるのがリボン・ツィーター(英国デッカ)。



外気温38℃の猛暑を吹き飛ばす勢いで我が家を席巻(せっけん)中(笑)。

しかし、2~3日経つとやや冷静になってきてその魅力を客観的に見つめたくなった・・、それには「聴き比べ」がいちばん!

アンプと違ってツィーターは目方が軽いので入れ替えが簡単というのも大いに助かる。そこで、次の4種類のツィーターをとっかえひっかえ試してみた。もちろん、基準となる物差しは「デッカ」である。

175ドライバー(JBL)、ワーフェデール1、ワーフェデール2、075ツィーター(JBL)

まず最初は175ドライバーの登場だ。

おっと、その前に・・、このシステムのうち、全体的なサウンドへの影響力からいえば、その割合として「~3000ヘルツ」を受け持つ「口径20cmのユニット」が5割、「5000ヘルツ~」を受け持つ「ツィーター」が3割、「~100ヘルツ」を受け持つ「サブ・ウーファー」が2割と踏んでいる。

つまり、全体の3割程度の影響力しかない「ツィーター」の功罪を問うわけだからかなり限定的という認識が前提となる。

で、まずは試した順番からいこう。

 

聴いた瞬間から「やっぱりJBLは凄いなあ、情報量が多いのでデッカよりも優るかも・・」、ところが2時間ほど続けて聴いているとなんだか音楽が「薄っぺらく」聴こえてくることに気が付いた。あえて言わせてもらうと「余韻が少し足りない」気がする。ジャズにはむしろ好ましいんだろうが・・。

そして、この175はやはり定格通り1000ヘルツあたりから使った方が良さそう、というわけであえなく脱落~。

次は、ワーフェデールの「スーパー3~その1」。



強力なマグネット付きのコーン型ツィーターで、デッカとあまり遜色がないのが第一印象、そのうち遠くまで届くような響きの浸透力においてデッカよりやや劣ることに気が付いた。デッカの横長の「ホーン」はやはり伊達じゃなかった模様(笑)。

次は同じワーフェデールの「スーパー3~その2」



同じワーフェデールのコーン型ツィーターだがやや口径が大きくて10cmほどある。マグネットが赤帯なので10年ほど前に飛びついたわけだが、以降期待を裏切られたことはない。「赤帯マグネットに駄作無し」の格言は立派に生きていた(笑)。

これも「その1」と同じワーフェデールだけあってそれほど変化なし。抜けのいい立派なサウンドだけど、デッカのホーンには太刀打ちできないように思う。

そして最後が、ジャジャ~ン・・、泣く子も黙る「075ツィーター」(ステンレス削り出しホーン付き)のご登場だ!



さすがにシンバルの響きには思わず息を呑んだ。これだけは天下広しといえども「075」の独壇場じゃないかなあ~。

ただし、クラシックの肝ともいえるヴァイオリンの音色がデッカよりもやや刺激的になってやや落ちるかなあ・・、惜しい~。

デッカが「重厚な高音」だとすると「075」は「爽快な高音」といえそう。

とはいえ、真夏には「075」が向いてそうなので、少し「もがいてみる」ことにした。

「075」用のアンプを「2A3シングル」から「3A/109B」シングルに交換。



通常は出力管に「LS7」(英国:GEC)を挿し込んでいるのだが、より「μ(みゅー=増幅度)」が低い、つまり音が比較的穏やかになりそうな「3A/109B」(英国:STC)を挿してみた。

デッカの場合はリボンだけあって極めて能率が低いので、比較的高出力の「2A3」シングルアンプあたりに限られるが、「075」だと能率が極めて高い(110db)ので、小出力のアンプが使えるところがいい。

すると、弦楽器の刺激的な音が幾分か和らいだのには大助かり・・、ただしアンプのボリューム調整には細心の注意が要りそう。

というわけで、結局「真夏の間」だけは「爽快なシンバルの響き」に免じて「075」にしようかな・・、「音楽的なサウンド」と「オーディオ的なサウンド」の狭間で大いに迷うなあ~(笑)。



昨日(2日)の夕方のこと、団地の端っこにある竹林の近くをウォーキングしていたらトンボが1匹飛んでいるのに気付いた。

猛暑の真っ最中にもかかわらず秘かに秋の気配が忍び寄っている・・、「夏来たりなば 秋遠からじ」、思わず嬉しくなりましたぞ~(笑)。

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「しゃべる能力」と「書く能力」のどちらが大切?

2024年08月02日 | 独り言

人間は社会的な生き物なのでそれぞれが役割分担して協調していかないと生きてはいけない・・、その辺が人間と他の動物の違いだそう。

そこでの話だが、人間が相手に対して自分の意思を反映させようとしたらどういう方法があるんだろう。

思いつくのはまず「しゃべる」、そして「表情と身振り」、さらには「書く」ぐらいかな。

通常「表情と身振り」は「しゃべる」と併用されるケースが多いので結局「しゃべる」と「書く」の二つに大きく収斂されるといっても間違いでは無かろう。

どちらも大切だが日常生活や仕事においては「しゃべる」方が圧倒的に優位で、「書く」は比較的必要とされないのは周知のとおり。

「女性は耳で恋をする、男性は目で恋をする」と、何かの本に書いてあったが、「女性は口説き文句に弱い、男性は見た目の美しさに弱い」という意味だそうで、やっぱり「しゃべる=口説く」のがうまい男性は「もて方」も違うような気がする。

たとえば、司馬遼太郎さんの著作「街道をゆく」によると、江戸幕府を開いた徳川家のルーツをたどると岡崎で「遊行僧」だった「徳阿弥」が庄屋の一人娘とねんごろになって婿養子に入ったことだという。

「遊行僧」といえば聞こえはいいが、まあ「風来坊」みたいなもので「おそらく口説くのがうまかったのだろう」と書いてある。

日本史における極めて重要な家系も元を辿れば「口説くのがうまかった」に行き着くというのが面白い(笑)。

したがって長~い人間の進化の過程では「しゃべる」能力の優勢な遺伝子の数が増えるのは自明の理だから、総体的にみて全人口の中で該当する比率が増しているのは疑いないところかな。

ただし、これまでの人生を振り返ってみると「しゃべる能力」と「書く能力」の両方に長けた人に出会うことはめったになかったような記憶がある。

つまり「しゃべる」のが巧い人は、「書く」のが苦手で、逆に「書く」のが巧い人は「しゃべる」のが下手といった具合。もちろん、両方とも冴えない人もいることはいるが・・(笑)。

具体的な例を挙げると、ずっと以前のこと、作家の「城山三郎」さん(故人)の講演を実際に拝聴したことがあるが、小さな抑揚のないボソボソといった話し方で、内容の方もさっぱり記憶に残らなかった。

これほどの大作家でもこの程度の「しゃべり」かと、驚いたと同時に「天は二物を与えない」ものだと、妙に安心感を覚えたことを記憶している。

エッ、安心感って・・?

実は、かくいう自分も「書く」のはあまり苦にならないが「しゃべり」は苦手なタイプであり、ましてや口説く能力となると皆無である(笑)。

いずれにしても、来し方「しゃべり」のうまい人が「うらやましくて」仕方がなかったが、こうして今のような身分になってみると「しゃべり」の機会はほとんど家族内に限られてきており、「書く」ことの比重の方が圧倒的に増してきている。

たとえば始めてからおよそ20年になろうかというブログ。

「文章が巧い」なんて誰からも言われたこともないが(笑)、「書く」ことが苦にならないことはたしかである。

極めてマイナーともいえる「音楽&オーディオ」分野のブログでも20年も続くとかなりの読者がアクセスしてくれるし、興味を持って読んでもらえるのであれば、ささやかながらも社会に役立っているかもしれず、日常生活に張りを与えてくれるのはとてもありがたいこと。

そういうわけで、晩年になると「しゃべる能力」よりも「書く能力」の方がむしろ「得」かもしれないなんて、勝手に思い直している次第。

したがって、タイトルに対する答えとなると「幼少から壮年時代は喋る能力」が大切だし、「老年時代は書く能力」が大切だというのが自分なりの答え。

とはいえ、これも基本的には「ネット時代の到来」のおかげだろう。

誰もが簡単に情報発信できるのだから「書く人間」にとってはまったく夢のような時代がやって来たものだ。



最後に、文中に登場した城山三郎さんのことだが、著書「落日燃ゆ」(福岡出身の宰相「広田弘毅」の生涯を描いた作品)は当時の愛読書だったので、一緒になったエレベーターの中でちゃっかりご本人からサインをもらったのは職業的な余得としていまだにしっかり記憶に残っている(笑)。



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