放送法における表現の自由とは
2015年4月8日
テレビ朝日のニュース番組「報道ステーション」でキャスターとコメンテーターが言い争いをするという珍しい場面に出くわしました。コメンテーターの元経産省局長が番組における自分の処遇に不満を述べ、キャスターがあわてて「番組から降ろされるということと違いますよ」と、割って入って反論したという話です。
先月末の番組で、わたしもテレビをみておりました。元官僚は「官邸の皆さんにはバッシングを受けてきた」とも発言したので、波紋を広げ、あちこちで話題になりました。その後、「報道ステーションが安全運転をしているのか、つまらなくなった」という指摘も聞きます。
一強を作り出した安部政権は、首相批判、政権批判、政策批判に過敏に反応するようですね。そのため、特に免許行政(放送法)であるテレビは官邸、政府に嫌われないよう相当に神経を使っているように見受けられます。絶大な政治権力を持った政権に対し、メディアは厳しすぎるくらいの態度をとったほうが国民は政治に関心を持ち、逆に政治は活性化するはずなのにね。
私憤を電波で述べるのはまずい
元通産官僚の古賀氏は辛口の政治論評を身上にしてきました。ただし、今回のできごとは、日ごろの政治論評ではなく、自分の人事上の処遇への不満をテレビ番組で述べたことが直接の問題です。これはいけません。電波は公共のものであり、免許行政の対象です。自分の人事の不満を述べることに使うのは論外です。キャスターの古舘氏が焦ったのはそのためだし、うかつにも舞台裏を見せてしまったという思いでしょう。
この夜は中東情勢がテーマでした。「視聴者は中東問題に対する見解を知りたいためにテレビを見ているのであり、コメンテーター個人の不満など聞きたくもない」という中東専門家の批判があり、それはポイントを突いています。だから個人的不満を持ってはいけないというのではありません。雑誌の寄稿でもインタビューでも、あるいは書籍ででも、いくらでも個人的な不満を吐露する道は開かれています。
放送法は電波を公共の目的に使うため、番組の編集にあたっては、政治的公平、公正(事実を曲げない)を求め、見解が対立する問題では多様な意見の紹介などを求めています。一方、新聞、書籍、雑誌では、事実に基づいているなら、何を言おう、書こうと自由です。
電波と活字メディアの違い
次に古賀氏の日ごろの政治論評は問題なのでしょうか。テレビ番組として、他の意見、見解を紹介し、全体としてバランスがとれていれば、古賀氏が何を発言しようと、事実関係を踏まえている限り、自由です。新聞、雑誌、書籍にはもっと激しい政権批判、安倍批判が登場し、古賀氏の論評のレベル程度は極端でも珍しくもありません。
ここで問題になるのは、古賀氏の論評を官邸やテレビ局が不快に思い、圧力をかけ、それが番組から降ろす理由になったかどうかです。官房長官は「事実無根。公共の電波を使ったコメント(官邸のバッシングないし圧力のこと)を報道したことは不適切だ」と述べました。テレビ局側も「ご指摘のような事実はない」とコメントしています。どうも私憤を番組で語ったことばかりに焦点がいってします。古賀氏が自分のポケットに忍ばせているという録音機による録音でも公表しない限り、微妙な点は水掛論に終わりそうです。
テレビにおける表現の自由という本質的な問題には行き着かないようですね。参考になったのは、番組編成の舞台裏をのぞいたことです。それにしても安倍政権はメディアによる批判、論評に過敏であり、そうした体質を政治ジャーナリズムが触れようとしませんね。特に安倍一強政権になってからの政治ジャーナリズムの批判精神の後退は残念なことです。
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