漂う宗教的な雰囲気
2015年4月7日
天皇、皇后両陛下は8日から太平洋激戦地のパラオに慰霊と平和祈念の旅に出られます。こうした旅に限らず、天皇に付き添われ、国内でも慰霊、慰問、激励の行事に臨まれるお姿を拝見していまして、「まるで気品とやさしさの雰囲気を漂わす観音様のよう」との印象を抱いてきました。
戦後70年にあたる年です。非礼をお許し願って、わたしなりの印象を敬意をこめて、ブログで紹介することにしました。天皇とともにパラオにお出かけになり、恐らく何度も慰霊と祈念のシーンが映しだされることでしょう。ちょうどいい機会なので、かねてから抱いていた感想をお伝えします。
連想する慈母観音像
仏教では、菩薩あるいは観音菩薩とは、悟りを目指す人を意味し、悟りをひらいた人は仏陀といいます。「慈母観音」という言葉もありますし、観音像の女性的な顔だちからして、女性名詞でいいのでしょう。本来は観音菩薩は男性とされるそうです。
皇室は神道とのつながりが深いので、観音様という表現はおかしいかもしれません。もっとも、明治天皇の神仏分離令の以前は、日本土着の神道と大陸伝来の仏教信仰が混合する神仏習合の時代が続いていましたので、観音菩薩という表現は許容範囲でしょう。
南洋の楽園だったパラオは戦前、日本の委託統治領で、日本人が2万人も入植していました。太平洋戦争の激戦地になり、守備隊の日本兵1万人が戦死しました。多数の米兵も戦死し、日本政府が建てた「西太平洋戦没者碑」のほかに、米国の慰霊碑もあります。両陛下は両方を訪問し、供花し、慰霊をする予定です。
日米で1万人超える戦死者
パラオはかつての「大東亜戦争」の全戦域を俯瞰する地点にありますので、200万人以上の戦没者、100万人以上の未収集の遺骨を思い浮かべ、戦争への謝罪、慰霊、平和を祈念する機会ともなります。天皇とともに海近くに立たれ、深々と頭をたれる静謐な姿が今度も映しだされることでしょう。
皇后は、かつて皇室という難しい環境の中で、極度のご心労からか、失語症に悩まれたこともありました。そうしたこともすべて飲み込み、ろ過し、穏やかで柔和な表情を絶やしませんでした。阪神大震災、東日本大震災の慰問、追悼に行かれた時も、人知れぬ苦労を超越した人だからこそ達するであろうやさしさを漂わせておりました。
2013年10月に書いたブログ「皇后陛下のピアノ生演奏ー昇華された心」で、「でんでん虫の悲しみ」という話も紹介したことがあります。国際児童図書評議会の大会(スイス)で、皇后は講演され、ご自身が子供の時の疎開の際、読んだ本のことを話されました。
でんでん虫の悲しみの話
ある時、でんでん虫(カタツムリ)が仲間に訴えます。「自分の背中にある重い殻には悲しみいっぱい、詰まっている」と。仲間がいいます。「それはあなただけではないよ。わたしも同じだ」。でんでん虫は「自分だけが悩んでいるのではない」と悟り、それからは、「わたしはわたしの悲しみこらえていかなければならない」と思うようなったという物語です。公の席における皇后の肉声です。
皇后がお話になる内容の精神的な深さ、慈愛に満ちたふるまいに接するたびに、わたしは柔和な観音菩薩を連想してしまいます。もしそういう表現に違和感をお持ちの方がおられましたら、お許しください。
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