本質的な問題の議論が必要
2023年3月16日
放送法の政治的公平性(第4条)の解釈と政治的な経緯を巡り、安倍政権時代に作られた総務省文書が波紋を広げています。与野党が対立し、高市氏の議員辞職要求、首相官邸からの圧力の有無、総務省文書の真偽、杜撰な文書管理などに争点が拡散し、本質的な問題が霞んでしまっています。
結論から言えば、「当事者である放送局側がこの問題をどう考えているのか」、「政治的圧力が実際にかかり、番組編成を変更したことがあるのか」、「圧力がなくても、政権の意向を忖度する結果、番組編成が委縮してしまっているのか」、「政治的公平の当事者である政権与党が政治的公平を要求する資格があるのか」、「政治的公平をどう定義するのか」などです。
報道ステーションなどで、断片的にキャスターらが「一つの番組ではなく、番組全体を見て政治的公平性を判断すべきだ。報道の自由を政治は侵害してはならない」などと、発言はしています。
「一つの番組でも極端な場合は、政治的公平を確保しているとは認められない」という政府・与党の補充的説明(放送法4条の解釈追加)については、「そういうことがないよう公平な番組編成を心掛けていきます」と、優等生的な意見を表明するにとどめている印象です。
私は四六時中、テレビを見ているわけではありませんので、それを前提とした感想です。テレビ局側は、番組の一キャスターの私的なコメントではなく、報道機関としてこの問題をどう考えているのかを、社長や会長など責任ある立場のトップがきちんとした見解を明らかにすべきでしょう。
政治的公平性と番組編成の関係については、断定的に説明できない部分や微妙な部分があるでしょう。突然、大きな問題に浮上した経緯もその背景が判然としません。テレビ局として発言しにくい状況なのかもしれません。そうであっても、報道機関として曖昧な態度をとっているべき時ではない。
2015年5月の高市総務相の国会答弁で、「一つの番組でも極端な場合においては、政治的公平性を欠くとして、①選挙で特定候補者をことさら取り上げて放送する②国論を二分するような場合、一方の見解だけを取り上げ、執拗に繰り返す」と具体的な説明しました。
そのほか安倍首相(当時)が「これまでの放送法の解釈はおかしい」などと発言すると、「番組制作の現場には、政府・与党に批判的な報道がしにくいという空気がじわじわと広がってきた」などという感想めいた話が放送局側から伝わってはいました。テレビ局側の反応の表明はその程度にとどまってきたような感じです。
テレビ局が日本で誕生した当時の経緯から、新聞社が大きな出資比率を有し、経営者や幹部を派遣し、編成現場での協力も行われています。新聞社こそ、テレビ局側の実態を調査、検証して報道すればいのに、そういうこともしたくないようにみえる。
その新聞社の主張をみていると、他人事のような対応をしていると感じます。朝日新聞は社説で「岸田首相は『この解釈変更が報道の自由に対する介入だとの指摘は当たらない』と述べた。政府がそう主張したところで説得力はない」(12日)と批判しました。
そこで聞きたいのは、例えば系列のテレビ朝日の「報道ステーション」に対し、「政権側からこれまで政治的圧力がかかったことはあるのか、それで編成方針を修正せざると得なかったことがあるのか」などを明らかにしてくれなければ、視聴者は政治的圧力の有無の判断のしようがありません。
実際には、特に安倍政権下以来、テレビ局は無難な番組編成に傾斜し、政治権力への批判精神が後退しているように、私には見受けられます。圧力によるのか忖度によるのか、何らかの力が働いているのでしょう。それが政権側の責任なのか、テレビ局側の問題なのかが分からない。
ニュース解説として評価が高かったNHKの「クローズアップ現代」は、夜の7時30分からの時間帯に復活したものの、暮らし、世相、時代の風景などのテーマが目立ち、なぜこうしたのかも分からない。たまたま昨夜のテーマは「俳句ブーム」でした。お茶の間的なテーマが多いのです。
日経社説は「放送の自律や表現の自由を損なうような動きがあったとすれば、重大である。政府は事実を検証し、国民に経緯を説明すべきだ」(9日)と要求しました。「政府が事実を検証」するのを待つのではなく、報道機関としてみずから検証し、実態を伝えてほしい。
読売社説は「高市氏を辞任に追い込む狙いがあるのだろうか。総務官僚による『大臣レク』の有無は本質的な問題ではない」と、指摘しました。私はその通りだと思います。高市氏の辞任問題は本筋から脱線しています。
そこまではいいとして、さらに読売は「政府が放送局に安易に口出しするようなことは慎まねばならない。放送局もっ正確かつ公平な番組作りを心掛ける必要がある」と、指摘しています。
視聴者が知りたいのは、「政府が口出ししたことは実際にあるのかどうか」なのです。読売は「公共財である電波を利用する放送局には、高い公共性が求められる。特定の政党の主張にそうような意見だけを取り上げた場合、政治的公平だとはいえまい」とも主張しています。
では「具体的にどういう番組でそういうことが起きたのか」を、われわれは知りたいのです。さらに不偏不党を貫くため、多くの政党の主張を平等に扱うようになったら、価値判断が忌避され、問題の所在がかえって分からなくなってしまう。
さらに政権与党という「政治的公平性」の当事者に「政治的公平性」を要求する権利があるのかも疑問です。だれが「政治的公平性」を判断すべきなのか。第三者でなければ、「政治的公平性」をそれこそ「公平」判断できないはずです。というように、堂々巡りの議論になる。
「放送法第4条を廃止せよ」という主張は極論のようにみえても、本質をついた議論でしょう。OECD諸国では、放送コンテンツ規制の撤廃が流れだそうです。日本の新聞はそうした議論をまずとりあげない。
その新聞は両極に分かれ、右翼的コンテンツの傾斜した雑誌が売れ、ネットでは正論より極論にアクセスが集まる。テレビだけに定義が難しい「政治的公平性」を要求されれば、広報機関のようになってしまい、多様な議論が噴出する多チャンネル化時代から取り残される。
政権与党や安倍政権当時の経緯ばかりに焦点を当てている時代でななくなったように思います。実際にネットには傾聴に値する主張を見出すことができる。新聞、テレビはそこに気づくべきです。
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