今日は地下鉄サリン事件が発生した日です。今から27年前の1995年の今日、麻原彰晃をトップとしたオウム真理教のメンバーたちによる陰惨な無差別テロが敢行されました。
私は、個人的にもこの日を忘れられません。というのも、もしかしたら私も被害者になっていたかも知れないということと、この日が生前の母との最後の面会になってしまったという、二重の意味があるのです。
あの日私は、当時母が入院していた国立がん研究センター東病院のホスピスケアに見舞いに行くべく小田急線に乗り、代々木上原駅で地下鉄千代田線に乗り換えて千葉県柏市に向かっていました。そして無事に柏駅に到着してバスに乗り、何のことはなく病院に着きました。
そこで、前日から詰めていた妹と交代して母のベッドの横に座り、入れ違いに妹は都内の職場へ出勤していきました。そして母と一緒に妹を見送ってしばらくしていると、寝ていた母がつけっぱなしになっていたテレビの画面を指差したのです。
「どうしたの?」
と聞いてみたら
「お前、今日地下鉄に乗って来たんじゃないの?なんかテレビで地下鉄の駅みたいなところに、沢山人が倒れてるのが映ってるけど。」
というので観てみると、そこに写っていたのは
ブルーシートに横たわるおびただしい人と、慌ただしくうごめく救急隊員たちの姿でした。はじめは何のことだかさっぱり分からなかったのですが、当初は
「地下鉄構内で爆発事故が発生した。」
という報道だったと記憶しています。
母と私は
「何が起きてるんだろうね。」
などと呑気に話をしていたのですが、そのうち『有毒ガス』というワードが出てきたことで、さっき出ていった妹の安否が気になりだしました。しかし、1995年当初は現在ほど激しく携帯電話が普及しておらず、外出先から連絡をとろうとするなら公衆電話に並ばなければなりませんでしたから、こちらでヤキモキしていてもどうにもならない状況でした。
この一連の出来事が、後に地下鉄サリン事件と呼ばれる空前絶後の無差別テロ事件だったわけです。
その後、妹とは無事に連絡がとれたのですが、当時勤めていた職場が地下鉄の駅のみしかなかったのと、連絡をとろうにも公衆電話に長蛇の列ができていたのとで、出勤もできず母に連絡もとれずにいたようでした。私はその日のうちにどうしても自宅に戻らなければなれなかったのですが、地下鉄が動いていないということでJR線を駆使してどうにか厚木まで戻ることができたことを覚えています。
考えてみれば、もし私があの時よりもう少し遅い千代田線に乗車していたら、私もあのブルーシートに横たわる一人になっていたかも知れなかったのです。そう思うと何だか地下鉄に乗るのが怖くなったのと、ちょうどその頃所属していたオーケストラの仕事が忙しくなってしまったのとで母の看病に行き辛くなってしまったのですが、そうこうしているうちに母は3月25日に他界してしまったのです。
今にして思えば、後悔ばかりです。あんな事件わ物ともせずにいれば、せめてもう一度くらい母に会えていたかも知れないのに、と…。
こんな無差別殺戮を宗教団体が主導していたということに、言いようのないショックを受けたものでした。人々の心の拠り所となるべき宗教団体が、自分たちを認めさせるために毒ガスを用いて無差別に人々を殺すなどとは…。
あの事件では地下鉄の駅員を含む多くの方が亡くなったり、現在でも後遺症に苦しめられたりしています。麻原彰晃を含む全ての被告人は全員極刑に処されましたが、だからといって故人や後遺症患者が救われるわけではありません。
せめて今は、未だにあの悲惨なテロ事件の後遺症に悩まされておられる方々に、心よりお見舞い申し上げます。また、犠牲となられた方々の御霊安かれと祈ると共に、大切な方を亡くされたご遺族に謹んでお悔やみ申し上げます。
合掌。