今日も昨日に引き続き、平日な疲れを取ることだけを念頭に置いて過ごしていました。決して、ただグウタラしていたわけではありません…。
そんな中で、何もしないのも何だかなぁ…と思って、何らかのCDを引っぱり出して聴いてみることにしました。そこで出てきたのがシューマンでした。
ローベルト・アレクサンダー・シューマン(1810〜1856)はザクセン公国のツィヴィカウというのどかな田舎町で生まれました。後にライプツィヒに出てフリードリヒ・ヴィーク(1785〜1873)にピアノを師事しますが、そのヴィークの娘が後にシューマン夫人となるクララ・ヴィーク(1819〜1896)です。
ヴィークの下でシューマンは研鑽を積みますが、皮肉にも自分で開発したピアニスト養成ギブス的な機械で指を傷めてしまい、ピアニストとしての道を断念せざるを得なくなりました。そんな中でローベルトとクララは愛を育みますが、師でありクララの父でもあるヴィークが頑強に結婚を許しませんでした。最終的には法廷闘争にまで発展しましたが、結局裁判所が二人の結婚を認め、晴れて彼等は夫婦となることができました。
その後シューマンは作曲者や指揮者として活躍しました。また1834年には『新音楽時報』の創刊に携わり、音楽評論家としても活躍しました。1853年には後の大作曲家ヨハネス・ブラームス(1833〜1897)を見出し、シューマンが評論で大きく採り上げたことでブラームスは一躍有名になったのでした。
しかし、16歳の時に精神を病んだ姉を亡くして以降、次々と身内や親しい人たちが他界していくことに直面するようになってからローベルトは徐々に「死」への恐怖に取り憑かれるようになり、遂には1854年にライン川に投身自殺をはかってしまいました。辛くも一命はとりとめたもののそこから2年に渡って精神病棟での療養を余儀なくされ、妻であるクララもなかなか面会が叶わない状況が続きましたが、遂にそこから回復する事なく46歳の若さで他界してしまいました。
そんな繊細なシューマンの自筆譜のひとつが
これです。これは1851年に書かれた《7つの歌曲》作品104から『あなたは私を哀れな乙女と言う』という作品ですが、細い線と細かな音符からシューマンの性格が窺えます。
この自筆譜の右下には
クララ・シューマンによってこれがローベルトの自筆譜であることを証明するサインが入れられていて、二人の絆の深さが感じられるものとなっています。
クララ・シューマンは優れたピアニストとして有名でした。彼女はローベルトが病に倒れた中で、ローベルトや彼との間に成した子どもたちを養うために演奏旅行を計画し、ヨーロッパ各地を巡って演奏会を開きました。
上の楽譜はクララがモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調を演奏するために書いたカデンツァの自筆譜ですが、女性の手にしては太くて力強い線に、彼女の覚悟のようなものを感じさせられます。
クララ・シューマンによってこれがローベルトの自筆譜であることを証明するサインが入れられていて、二人の絆の深さが感じられるものとなっています。
クララ・シューマンは優れたピアニストとして有名でした。彼女はローベルトが病に倒れた中で、ローベルトや彼との間に成した子どもたちを養うために演奏旅行を計画し、ヨーロッパ各地を巡って演奏会を開きました。
上の楽譜はクララがモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調を演奏するために書いたカデンツァの自筆譜ですが、女性の手にしては太くて力強い線に、彼女の覚悟のようなものを感じさせられます。
ところで、シューマンはヴィオラのために貴重なオリジナル作品を遺してくれています。それが《おとぎの絵本》作品113という作品です。
この曲は先程の自筆譜の歌曲と同じく1851年に作曲されたもので、当時シューマンが指揮者を務めていたデュッセルドルフのオーケストラのコンサートマスターであり、最初にシューマンの伝記を手掛けた人物でもあるヴァジエレフスキのために書かれたこと以外には作曲の経緯は分かっていません。それでも.クラシック音楽のビッグネームの一人が遺してくれたヴィオラのための貴重なオリジナル楽曲として今日に伝えられています。
そんなわけで、今日はその貴重なヴィオラのオリジナル作品《おとぎの絵本》をお聴きください(ライブ音源で観客の咳や子どもの声が入っていますが、気になさらないでください)。