毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
忙しい・・・
12月23日から始まった冬休み期間が、9日でやっと終った。わずかな正月休みを挟んで、18日間怒涛のように過ぎて行った。今はただ、ホッとしているが、そんな間もなく、厳しい受験シーズンが始まる。まずは21日に最初の私立中学校の入試がある。その後は、順次週末に私立中学の入試が続いていく。21・22日はセンター試験だし、中学3年生の学年末試験もその頃だ。スケジュール表を見ただけでめまいがしそうになるが、これからが一番大事なときだ。へこたれていてはいけない、気を引き締めよう。
だが、なんでこんなにも忙しがっているんだろう。少し前はこれほど時間に余裕がなかったわけではないような気がする。いまはもう、24時間ある1日が本当にあっという間に過ぎていく。時々、こんなに早く過ぎてしまって大丈夫だろうかと思ったりするが、そんな気持ちを反芻する余裕さえなく、次の日になってしまっている。塾生の様子はしっかり把握しているつもりだが、これほど私に時間的な余裕がないと生徒に悪影響を及ぼしていないか、心配になる。年をとると、時間の進み具合にアクセルがかかるとは聞いたことがあるが、今は少々暴走気味だ。困ったものだ。
それでも、なんとか心にゆとりを持とうと、寝る前にたとえ短時間なりとも読書しようと心がけている。睡眠誘発剤として読書はなかなかの効果を見せてくれる。知らぬ間に寝入ってしまい、本が開きっぱなしに枕元に転がっていることもしばしばだ。それでも、読書が教養の源であると信じて疑わない旧世代に属する私には、ほんの1ページでも本を読んだという満足感が何物にも変えられぬ意味を持っている。今読んでいるのは(と言っても、なかなか進まず、もう何ヶ月も同じ物を読んでいるのだが)夏目漱石の「吾輩は猫である」だ。我が家がとっている地元紙『中日新聞』が、もう何年も朝刊に夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介、泉鏡花などの文豪の作品を掲載している。「猫」が連載され始めて一年近くなる。私は最初の頃は頑張って毎朝読んでいたのだが、何かの拍子で読み忘れが2・3日続いてしまったら、もうダメだった。あっという間に引き離されてしまった。それなら、本で読んで何とかして連載に追いつこうと思って読み始めたのだが、全く追いつけない。かえってずるずると引き離されるばかりだ。
「猫」は中学1年生くらいの頃に「旺文社文庫」を買って読んだ。今ではそんな文庫は見かけないが、読み終えたときはこんなに太い本を読み終えたなんてすごいな、などと感心した覚えがある。解説本などを見て面白い小説だと思って読み始めたのだが、なにせ難しい漢語が多くて、その時の私には半分以上理解できなかった。その後何回か読んで、面白さが徐々に分かるようになったが、今回コツコツと読んでみると、また新しい発見が色々ある。今読んでいる箇所にちょうど現在の私の心境を見透かしたような一節があるので引用してみる。
ただおかしいのはこの閑人がよるとさわると多忙だ多忙だと触れまわるのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほどこせついている。彼らのあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどというが、気楽でよければなるがいい。そんなにせこせこしてくれと誰も頼んだわけでもなかろう。自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいと言うのは自分で火をかんかん起こして暑い暑いというようなものだ。
さすが漱石先生、19世紀に21世紀の私の愚かさをちゃんと見据えていらっしゃる。ここを読んだときは一瞬眠気が飛んで、なるほどと唸ってしまった。私の今の忙しさなど全て自分でまいた種だ。刈り取る力もないくせに種をまきすぎるからこうなる。悔しかったら、黙って最後まで刈り取ってみろ。そう怒鳴られたような気がした。
京都に戻った娘が、素敵なオブジェを残していってくれた。冷蔵庫の上にあったマグネットなどを利用して人の顔を形作ってくれたのだ。それを写真に撮ってみたが、心に柔軟性がある人間は面白いことを思いつく。私もこれくらいの余裕を持ってこの忙しさを乗り越えていかなければ、待ち望む結果は得られないだろう。心しよう。
だが、なんでこんなにも忙しがっているんだろう。少し前はこれほど時間に余裕がなかったわけではないような気がする。いまはもう、24時間ある1日が本当にあっという間に過ぎていく。時々、こんなに早く過ぎてしまって大丈夫だろうかと思ったりするが、そんな気持ちを反芻する余裕さえなく、次の日になってしまっている。塾生の様子はしっかり把握しているつもりだが、これほど私に時間的な余裕がないと生徒に悪影響を及ぼしていないか、心配になる。年をとると、時間の進み具合にアクセルがかかるとは聞いたことがあるが、今は少々暴走気味だ。困ったものだ。
それでも、なんとか心にゆとりを持とうと、寝る前にたとえ短時間なりとも読書しようと心がけている。睡眠誘発剤として読書はなかなかの効果を見せてくれる。知らぬ間に寝入ってしまい、本が開きっぱなしに枕元に転がっていることもしばしばだ。それでも、読書が教養の源であると信じて疑わない旧世代に属する私には、ほんの1ページでも本を読んだという満足感が何物にも変えられぬ意味を持っている。今読んでいるのは(と言っても、なかなか進まず、もう何ヶ月も同じ物を読んでいるのだが)夏目漱石の「吾輩は猫である」だ。我が家がとっている地元紙『中日新聞』が、もう何年も朝刊に夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介、泉鏡花などの文豪の作品を掲載している。「猫」が連載され始めて一年近くなる。私は最初の頃は頑張って毎朝読んでいたのだが、何かの拍子で読み忘れが2・3日続いてしまったら、もうダメだった。あっという間に引き離されてしまった。それなら、本で読んで何とかして連載に追いつこうと思って読み始めたのだが、全く追いつけない。かえってずるずると引き離されるばかりだ。
「猫」は中学1年生くらいの頃に「旺文社文庫」を買って読んだ。今ではそんな文庫は見かけないが、読み終えたときはこんなに太い本を読み終えたなんてすごいな、などと感心した覚えがある。解説本などを見て面白い小説だと思って読み始めたのだが、なにせ難しい漢語が多くて、その時の私には半分以上理解できなかった。その後何回か読んで、面白さが徐々に分かるようになったが、今回コツコツと読んでみると、また新しい発見が色々ある。今読んでいる箇所にちょうど現在の私の心境を見透かしたような一節があるので引用してみる。
ただおかしいのはこの閑人がよるとさわると多忙だ多忙だと触れまわるのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほどこせついている。彼らのあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどというが、気楽でよければなるがいい。そんなにせこせこしてくれと誰も頼んだわけでもなかろう。自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいと言うのは自分で火をかんかん起こして暑い暑いというようなものだ。
さすが漱石先生、19世紀に21世紀の私の愚かさをちゃんと見据えていらっしゃる。ここを読んだときは一瞬眠気が飛んで、なるほどと唸ってしまった。私の今の忙しさなど全て自分でまいた種だ。刈り取る力もないくせに種をまきすぎるからこうなる。悔しかったら、黙って最後まで刈り取ってみろ。そう怒鳴られたような気がした。
京都に戻った娘が、素敵なオブジェを残していってくれた。冷蔵庫の上にあったマグネットなどを利用して人の顔を形作ってくれたのだ。それを写真に撮ってみたが、心に柔軟性がある人間は面白いことを思いつく。私もこれくらいの余裕を持ってこの忙しさを乗り越えていかなければ、待ち望む結果は得られないだろう。心しよう。
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