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「肉体の悪魔」

 ラディゲという名を何人の人が知っているだろう。「カミュなんて知らない」という映画ができるくらいだから、ラディゲなんて知っている人は本当に少ないのかもしれない。しかし、私が一番影響を受けた小説は何かと問われたなら、ラディゲの「肉体の悪魔」を躊躇なく挙げるだろう。書棚にあった新潮文庫「肉体の悪魔」(新庄嘉章訳)は、昭和49年12月30日発行の本だから、私が初めて読んだのは高校2年だったと思う。私にとっては高校2年生というのは、無茶苦茶な年であり、その時にこの本を読んでいたのは今思えばかなりヤバイ符合であったものだなと自分にしか分からない納得をしてしまう。自分の息子がちょうど高校2年である今、何故だか書棚からこの本を取り出し、30年ぶりくらいに読み返してみたのは、人生のアイロニーと言えなくもない。
 ラディゲは、1903年パリ近郊に生まれ育つ。14歳の時に散歩の途中に知り合った女性と恋愛事件を起こし、学業を放棄するが、雑誌に発表した詩がアポリネールらを驚嘆させ一躍文壇の寵児となる。ジャン・コクトーにその才覚を見抜かれ、自らの体験に取材した処女小説「肉体の悪魔」が、反道徳的とも取れる内容が逆に評判を呼び、ベストセラーになる。その後、「ドルジェル伯の舞踏会」を書き上げるが、腸チフスのため20歳の短い生涯を閉じる・・・これだけで語られてしまうほどの短い人生であったが、彼の死はコクトーに深い衝撃を与え、その後10年間にわたって彼はアヘンにおぼれ続けたという。こうした魂の交感というべき詩人の付き合いは私には到底量り知れないものであるが、わずか20年の生涯で私を始め多くの人々に影響を与えたラディゲの存在は、フランス文学史上の奇跡と言ってもいいのではないかと私は思う。
 「肉体の悪魔」の内容については、文庫本のカバーに書かれた文言がさすがに上手く言い表している。
『青年期の複雑な心理を、ロマンチシズムへの耽溺を冷徹に拒否しつつ仮借なく解剖した、ラディゲ16-18歳のときの驚くべき作品。第一次大戦のさなか、戦争のために放縦と無力におちいった少年と人妻との恋愛悲劇を、ダイアモンドのように硬質で陰翳深い文体によって描く』
 今回読み返してみて一番に感じたのは、「何言ってんだこのガキは、生意気言ってんじゃないよ」ということだ。若さの傍若無人さが本当に鼻に付く。何も知らない子供が偉そうなことばかり言って、と苦笑さえしたくなるほどだったが、読んでいくうちに次第にそんな親父くさい感覚はなくなっていった。いつの間にか初めて読んだ17歳のころに戻って行ったのかもしれない。「そうだよな、大人っていうのは何も分かってくれないよな」などと感情移入している自分に驚きもしたが、ふっと自分の子供がこんなんだったらきっと腹がたって毎日喧嘩しているだろうなとも思った。
 戦争に出かけている兵士を夫に持つ19歳の妻であるマルトを愛し始め、いつしか関係を結び己の子供までもマルトの体内に宿してしまうこの16歳の少年は、大人となりマルトと同じ年頃の娘を持つ今の私から見れば、とても許すことのできない「クソガキ」だ。しかし、読み進むにつれ30年前の記憶が次第に甦ってくると、とても近しい存在のように思えてきて何だかとても複雑で、訳が分からぬ感情でいっぱいになった。そんな不埒なことを自分の娘にしでかす子供を叱る父としての私と、そんな不埒なことを平気でしでかしかねなかった30年前の私との間で、今の私はいったいどちらに肩入れをすればよいのか読みながら決めかねていたし、読み終えた今でも決めかねている。年月を経て、以前読んだ書物を改めて読み直してみるのも今の自分を振り返る有効な手段だと思うが、時の流れとともに物の見方が変わってしまった己の姿を見つけるのはいささか悲しい気にもなる。
 それにしても、マルトが生まれてきた子供に恋人である少年の名前を付け、その名を叫びながら絶命したという最後の場面は何度読んでも鬼気迫るものがある。夫はその子を自らの子と信じ、子供の名を叫びながら死んでいった妻を悲しむものの、その実、愛する恋人の名を叫びながら死んでいくマルトの姿は、私の心を激しくうつ。それは30年前も今も変わることがない。名作と呼ばれる書物は、時代とか境遇とか一切のことを越えて、読む者の心を打つもののことを言うのではないだろうか。
 
 でも、三島由紀夫の「ラディゲの死」を読んだことのある人はもっと少ないだろうな。

 
 
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