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カミュなんて知らない

 「カミュなんて知らない」という映画がある。 監督は柳町光男、出演は柏原収史、吉川ひなの、前田愛などらしい。その内容を写してみる。

 大学の授業の一環で、高校生の<不条理殺人>をテーマに映画を製作することになった学生たち。犯人の心を探るうちに、その思いは各々の実人生にシンクロし、恋と友情にスリリングに交錯していく。名作映画のパロディを盛り込み、戯曲化された群像劇が展開する前半から、現実と虚構が一体化する驚愕のラストまで一気に疾走する。
 
 はっきり言ってこの映画を私は見ないだろう。もともと吉川ひなのは好きではなかったが、今回の堀江の騒動で二人の中がとりあげられ余計にイヤになった。なら、どうしてこの映画をここで取り上げたかといえば、その題名が私にはショッキングなものだからである。カミュといえば「異邦人」「ペスト」などが代表作の、ノーベル文学賞を受賞したフランスの作家だが、私の卒業論文のテーマはカミュだった。私が心血注いで鈍才に鞭打ってやっと書き上げた生涯唯一の論文のテーマたる作家が、現代では知る者が少ないという事実を突きつけられて、少なからず動揺してしまったのだ。
 それも無理はないのかもしれない。アルジェリア生まれの彼が27歳のときに発表した小説「異邦人」(1942)は、“太陽が眩しかったから”殺人を犯した主人公ムルソーの<不条理殺人>が社会現象となるほどの衝撃を生み出した。しかし、今時殺人事件など珍しくないし、全く訳の分からぬ動機で殺人を犯す者も多い。発表当時はセンセーショナルな出来事であった事件も現代では、毎日、新聞紙上をにぎわす事件のひとつになってしまっている。時代がカミュを追い越してしまった以上、忘れられていくのも仕方ないのかもしれない。それを時の流れというには悲しいが、そうやって時代は移っていくものだろう。
 しかし、人間の本質とはわずか60年ほどで変わるものではない。カミュが「異邦人」で表現しようとしたことが現代の若者に全く無意味であるはずはない。「不条理」というキーワードでカミュを読み進めるのは簡単だが、そんな1つの抽象的な言葉で片付けられるほど薄っぺらな存在ではない。カミュの小説から生きることに対して真摯さを感じるのは私だけではないはずだ。一見自暴自棄に見えなくもない「異邦人」のムルソーさえも生きることに真正面から向かい合っている。現代では生きることから目を逸らす者がどれだけ多いことか。なにも「生きるとは?」などと堅苦しく考える必要もないが、あまりに何も考えていない者たちを日常見るにつけて思わず愚痴の1つも言いたくなる。
 そう思って、自分が25年も前に書いた論文を探してみた。どこにしまったのか忘れてかなり手間取ったが、何とか見つけた。題名は「鏡の遊戯ーカミュ『転落』論」とある。何を書いたか全く覚えていないので、ちょっと読んでみようとしたが、序論を半分ほど読んだところで諦めた。何が何やらさっぱり分からない。言葉に酔っているというか、論旨が整っていないというか、全く意味不明の言葉が羅列してあるだけだ。こんなものを読ませられた教授もたまったもんじゃなかったろう。口頭試問では2人の教授からこっぴどく不備を指摘されたが、それも当然であろう。自分としては上出来だと思っていたから、教授の無理解さを謗ったりしたものだが、今思えば勘違いも甚だしい。「私の人生、こんな勘違いを重ねてここまできたようなものだな」、などとちょっとした反省ができただけでもかび臭い論文を見つけた意味はあった。
 しかし、驚くような事件は本当に毎日起こっている。昨日の朝刊には名古屋で、夫を殺害した後で9歳と6歳の子供を道連れに自殺した主婦の事件が報道されていた。自宅には「夫と不仲」と書いたメモが残されていたようだが、主婦の知人たちは「なぜ?」と驚きを隠せないそうだ。こうした事件が起こるたびに、他人からは窺い知ることのできない「心の闇」を指摘する「識者」が必ず現れるが、果たして私たち誰もが持っている「心の闇」は、カミュが「異邦人」を書いた時代の人々のそれよりも大きくなっているのだろうか。
 どうなんだろう・・・

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