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「デスノート」

 「デスノート the Last name」を映画館で観た。郊外にあるシネコンは、水曜日がレディースデイで、女性客は1,000円で観られ、しかも朝イチの上映だと、男性客も1,200円で見られるということで、妻に誘われて出かけた。映画館で観るなんて、「スターウオーズ・エピソード2」以来だから、実に4年ぶりだ。10時の上映に間に合うには9時過ぎに家を出なければならなかったが、久しぶりの映画に気合が入っていたのか、8時前には目が覚めてしまった。こんなに早く起きてしまうと、映画の途中で眠ってしまうかもしれないと危惧したが、つまらない映画ならそれも仕方ないかなと思いながら出発した。
 映画館のホールに入って驚いたのは、まだ朝10時前だというのに、実に多くの客がいたことだ。レディースデイと銘打っているだけあって大部分が女性客だった。しかも「おばさん」と呼ぶのがふさわしいような私たちと同年代の人たちが多くて、女性のパワーの強さを感じずに入られなかった。この映画は、公開されて1ヶ月近く経っているので、さすがに空席が目立っていたが、それでも全席指定だったため、私は通路側の席をとってもらった。私はこうした閉鎖された空間というものが苦手で、慣れるまでに少し時間がかかる。いつものことではあるが、しばらく気持ちが治まらず、居心地が悪かった。予告編が幾つか流され、いよいよ「デスノート」が始まる頃まで落ち着かない気持ちが続いたが、本編の上映が始まると次第にそんな気持ちは忘れてしまった。いつの間にか映画の中に惹きこまれていたのだ。
 私は前編を観ていないので、最初は話の設定がよく分からず、少しばかり戸惑った。しかし、そんなことはお構いなしに話がグイグイ進んでいくので、しばらくしたらすっと話が飲み込めるようになった。「デスノート」の使い方の基本的なルール(ノートに名前を書かれた者は、そこに書かれた状況通りに死んでいく)は観る前に何となく理解していたので、それさえ分かっていれば話についていくことはさほど難しくないようだ。
 
 
 久しぶりに見た藤原竜也は、相変わらずのベビーフェイスだったが、それでも男らしさが漂い始めているような気がした。長身ですらっとしていてあの顔であの声、妻が夢中になるのも当然なのかなと納得がいった。ただ、妻にも話したのだが、デスノートを操りながら、犯罪者のいない新世界を作り出そうとする悪魔的な凄味が彼の演技から感じられなかったのは残念な気がした。決して焼きもちを焼いているわけではないけど、「内なる狂気」というものを演じてくれたなら、もっとデスノートの恐ろしさが観る者に伝わったのではないかなと思った。
 藤原が演じる月(ライト)に対峙する、天才探偵L役の松山ケンイチという役者のことは全く知らなかった。藤原と同じホリプロに所属し、藤原よりも若いらしい。配役が決まったとき、2ちゃんねる辺りではかなりのブーイングが出ていたと、妻が教えてくれたのだが、私はとてもよかったと思う。冷静に理詰めで月を追い詰めていく姿は無機的でエキセントリックな感じがするものの、自らの命を犠牲にしてまで、ついにはデスノートの存在さえも明らかにしてしまう、そんなL役を見事に演じていたと思う。常に甘いものを口にしている偏執狂的な面も表現しながら、最期の時には人間的な感情を吐露して安らかに死んでいった彼の姿に、思わず目頭が熱くなってしまった。

 私にとってはかなり面白い映画だった。マンガを原作にしているだけに荒唐無稽な話ではあるが、現代への警鐘も鳴らしているのではないかと思った。新世界の創造のためには、多少の犠牲は仕方ないとする月の考えは、目的を第一義とし、そのためにはどんな手段を使ってもいいという考えそのものだ。しかし、多くの血が流された挙句に成就された社会など、果たして理想的な社会と呼べるのだろうか。理想社会を作り出すためには、その過程でどんな手段をとるかがその社会の真価を決めるのではないか、すなわち、「目的が手段を正当化する」のではなくて、「手段が目的を正当化する」のではないか。正義のためだといって、それを錦の御旗にすれば殺人さえも正当化される、そんなことは決して許されない、そうしたことをこの映画は暗に訴えているのではないだろうか。

 などと「デスノート」を観て考えてしまったのは、私だけなのかもしれない・・・
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