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しわ

 若い頃は額にしわが一本もないことがちょっとした自慢だった。何をするにしてもしわなど寄せずにできるんだ、などと偉ぶりたかっただけかもしれないが、自分の額にしわなど似合わないとさえ思っていた。それがいつごろからか鏡など見なくなり、しわのことなどまったく意識せずに日々暮らすようになった。そんなものを気にしてはいられなくなったというのが本当のところだが、少し前にはっと気づいたら、額に何本かのしわが刻まれていた。びっくりしたが、年をとればそれも仕方ないことだと、自分を慰めた。年をとると、いろんなものに妥協するようになるが、妥協する自分に「仕方ない」と慰めるのも上手になっているのが悲しい。結局は現状に流されて、その流れを押しとどめようとする意欲が出てこないのもまた悲しい。そうやってどんどん老けていくのだろうか・・
 
 最近妻から「眉間にそんなにしわを寄せないで」とよく注意される。えっ?と、眉間に指を当てると、確かにその辺りがこわばっている。自分ではまったく意識していなかったが、身近にいる者には気になっていたようだ。「そんなに力まなくてもいいじゃない。リラックス」と妻は忠告してくれるが、確かにいろんなことに力が入りすぎているような気もする。中学受験を目指す小学生の成績がなかなか向上してこないとか、高校受験が近くなってものんべんだらりと過ごす者が多いとか、日々塾の生徒と接していると不満が募ってくる。それを子供に吐き出せる場合もあれば、我慢しなければならない場合もある。そうした折には、きっと眉間にしわを寄せてイラついているだろう。そんな形相をしていては、生徒が気軽に質問もできないではないかと反省するのだが、なかなか優しい顔ばかりしていられないのが現実だ。そうした場合、眉間を指で撫でながら、「リラックス、リラックス」と妻が言うように唱えてみる。そうすると、不思議に力が抜けて、ほっとできる。「そんなに神経過敏にならなくてもいいじゃないか」と呟きながら、眉間に集まった力をほぐしてやると、かなり気持ちが楽になる。

 「残念ながら、ある年齢を越すと、誰でも自分の顔に責任がある。わたしのときたら・・・。」

という一節が、A・カミュの「転落」にある。10代の頃に読んだはずだが、どういうわけだかこの一節を鮮明に覚えている。その後、いろんなところでこれと同じような表現を見聞きしたことがあるから、昔からよく言われてきたのだろうが、私は「転落」で初めて知った表現だった。その時は、ある年齢に達した人間はその顔を見ればどんな暮らしをしているのかが分かってしまうのかな、と漠然と思っただけだった。しかし、今改めてこの一節を読んでみたら、かなり恐ろしい言葉だと思った。確かに、己の行動に己が責任を持つのは当然であり、その責任を全うしながら生きていくものだとは思うが、その一つ一つが己の顔に刻み込まれていたとしたなら、顔のしわ一本一本がその人の人生を語るものであり、そのしわにも私たちは責任を持たねばならないこととなる。そういう観点で見た場合、私の眉間のしわは何を象徴しているのだろう?己の力の足りなさにに対する憂いなのか?うまくことが進まないことへの苛立ちなのか?己の思いが相手に伝わらないことへの憤懣なのだろうか?・・・いくらでもある。
 
 しわとは、木に刻み込まれた年輪と同じようなものかもしれない。樹木の年輪を見れば日の当たる方向が分かると言うが、それと同じように、私のしわの深さや長さを見れば、私の己の人生に対する思い入れの度合いを測ることができるのかもしれない。だとすれば、私の知らぬうちにできてしまったものだとはいえ、私は額や眉間のしわに責任を持たねばならないだろう。このしわは、否が応にも私の生き様を映し出しているのだから。
 鏡を見ることは少なくなった。普段は、しわにさほど意識することはない。しかし、私は自分の顔で知らず知らずのうちに自らを語ってしまっているのだ。たまには鏡を見て、己の顔をチェックすることも必要なのだろう。
 
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