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600回

 この記事で600回目の投稿になる。100回、200回の時はそれなりの達成感もあってこのブログで嬉しがったものだが、1年を過ぎて400回、500回はまったく気づかないうちに過ぎていた。それなのに今回は、1週間ほど前に「もうすぐ600回だ」とふっと気づいてしまい、何だか素通りするのも寂しいかなと思って、ちょっとした記念に書き留めておこうと思った。
 近頃は野球の選手が、何か節目の記録を達成しても、「単なる通過点ですから」などと話すのをよく耳にする。そこに到達したらそれで終わりというものではないのだから、それも当然のことであり、更なる高みを目指して精進しようという意気込みがこちらにも伝わってくる。しかし、私が今、「600回となりましたが?」などと感想を求められたとしても、決して「通過点」などという言葉はおこがましくて使えない。なにせ、最初から何かの目標を持って始めたものでもないし、今でも何かを成し遂げたいと思っているわけでもないのだから。それでも1年前なら、1年間は毎日休むことなくこのブログを書き続けようと自分に課題を押し付けていたから、それに呻吟しながらも「1年はなんとか!」などと自分に鞭打っていた。しかし、それを曲がりなりにも成し遂げてからは、まったく無目的にネットの世界を漂ってきたような気がする。いつか書いたように、くらげのようにプカプカ漂いながら、沈むともなく泳ぐともなく、浮遊感に身を委ねながら、己の気持ちのなすがままに任せて、ネットの海で遊んでいる気がする。
 よくブログを始めるきっかけを、「情報を発信したいから」などと言っているのを見かけるが、私には発信したい情報などない。そもそも、大した知識を持ち合わせていない私にそんなことができるはずもない。600という投稿数はそれなりに大した数ではあると思わないでもないが、実感の伴わない数でもある。私はいったい600回も何を書いてきたのか。毎回の記事をカテゴリーによって分類しておく癖があったなら、自分の書いてきたものにどういう傾向があるのか漠然とではあるにせよ、分かるかもしれないが、無精者の私にはそんな面倒なことはできない相談だ。それに自分の書いたものを読み返すことはめったにしていない。なので、重複した記事を書いたことが間々あるのかもしれない。でも、同じことしか書けなくなったら、見苦しいだけだから、書くのはやめようと思っている。惰性とかマンネリとか、そんなものが見え始めたら、きっぱりとやめようと思っている。(今のところ自分ではなんとか持ちこたえていると思っているのだが、どうだろう・・)
 しかし、今はこのブログを書くのが楽しい。チョコもプリンもアンも私だ。松井秀喜もSMAPもカミュも私だ。憲法9条もイマジンも「悪魔のささやき」だって私だ。ぐっちゃぐちゃにかき混ぜて何がなにやら分からなくなっているような気もするが、これこそが今の私だ。今日は何を書こうかな、今度はこんなことを試してみようかな、などと仕事の合間に考えるのが楽しくて仕方がない。馬鹿なことをやってみたいという気持ちもあるし、自分でも驚くような論文を書いてみたいという気持ち、どこかにぶつけたいけれどどこにもぶつけられない思いを書き留めておこうという気持ちもある。いくつもの思いが交錯しながら、様々な感情に心を乱されながら、毎日生きている私というものをこのブログ上に書き綴っているとするならば、ここは自分にとってはなくてはならない、カタルシスの空間なのかもしれない。
 「何故ブログを続けているの?」と問われたなら、「心の平衡を保つため」と答えるのが今の自分の思いを最も端的に表しているように思う。感情に押し流されることなく、「心の平衡」を保てなければいい仕事はできない。心の中にゆとりというか、遊びというものを持っていなければ、人はついてこないような気がする。一生懸命努力しながらもどこかに遊び心を持ち、他人にも寛容になれるような人間になりたいと常に思っている。そのためには、まだまだこのブログに助けられることは多いだろう。
 決して肩肘張らず、淡々と続けていきたいものだと思っている。さて、いつまで続くことやら・・・
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