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デリカシー

 昨日バスの中で聞いた小学4年生の会話。
「あの子ってさあ、男の子の前でも関係ないよね」
「うん、デリカシーがないよね」
えっ?デリカシー?おいおい、君たち意味を理解して使ってるのかい?・・・私は思わず聞いてみた。
「ねえ、デリカシーってどういう意味なのか知ってるの?」
「まあ、だいたいは」
「それじゃあ、教えてよ」
「恥ずかしがらないで、っていう感じかなあ」
う~~ん、そうか、そう意味に使っているのか・・・。しかし、小学4年生が使う言葉じゃないだろう。どうしてそんな言葉を知っているんだろう。たずねてみようとしたら、その子の家の前に着いてしまった。
 彼女は小学4年生と言っても、身長が155cm以上あって大人といってもいいような体格をしている。顔立ちも大人びていて、そうしたカタカナ言葉を使ってもおかしくないだけの風貌は備えているが、なんと言ってもまだ10歳になったばかりだ。そんな子がよく「デリカシー」なんて言葉を知っていたものだと感心した。相手をしていたのは、同じ4年生ながら身長127cmの、1年生と間違えられそうな小柄な子なので、余計にその子が大人びて見えたのかもしれない。
 が、私こそ「デリカシー」の意味をきちんと把握しているのだろうか。delicacy に対する訳語なら、「優美・上品さ」「繊細さ」など幾つか頭に浮かんでくるが、日本語の中に入ったカタカナ語としての意味は少しばかりニュアンスが違うような気がする。そこで、念のために調べてみた。
 【デリカシー】
   ①心や感情などの繊細さ。こまやかさ。
   ②様々な事柄の取り扱いに細心の注意を要すること。微妙さ。
と、「国語大辞典」にあった。
 私は昔からよく、「あなたにはデリカシーがないんだから」と妻に言われてきた。確かに、自分が自己中心的で思いやりに欠ける人間であるのは認めるが、「デリカシーに欠ける」などと言われると、かなり辛い気持ちになる。それは、己の心に繊細さが足りないと言われることであり、自分の感受性の拙さを非難されるような気がして、まさしく痛いところを突かれたような気がするからかもしれない。まあ、あれほど繰り返し難詰されても一向にデリカシー溢れた人間になれていないから、私は根っから繊細さに欠けた人間なんだろう・・・
 
 しかし、最近は余り聞かなくなっていたこの言葉を、小学4年生の口から聞けたのは面白かった。小さなうちからこうした言葉を知っているなら、今町を闊歩している女子高生たちのようにはならないのではないだろうかと思う。最近よく見かける、革靴のかかとを踏み潰して、まるで突っかけ感覚でぞろぞろ歩きながら、突然大声を上げて笑い出したり、しゃがんだりして周りを通行する者たちをぎょっとさせるような振る舞いなど、決してするようにはならないだろうと思う。町に溢れかえる、デリカシーの欠如した愚行を繰り返す若者たちとは一線を画す者に成長して行ってくれるではないだろうか、と期待してしまう。
 たぶん、この子は家庭で親がそうした言葉を使っているのを習い覚えたのだろう。もちろん戒めの言葉として使っているから、子供もそういう意味で使うのだろう。家庭の躾というものは、やはり親が範を垂れることこそ大事だ。子供の教育には家庭の力が不可欠だ。改定された教育基本法でも家庭の躾というものが重要視されており、それにはまったく異論はない。しかし、それはあくまでも自発的なもの、親から子へ連綿と伝えられていく「家庭の力」とも言うべきものであって、国家が強制するものではないように思う。どんなものであっても、強制などされたらなかなか受け入れることは難しい(強制されなければ何もやらない子供たちが多いことも否定できないが)。
 改定案が成立する一連の過程を見直してみると、実にデリカシーを欠いた段取りでここまでたどり着いてしまったのが、残念で仕方ない。デリカシーを欠いては「美しい国」など、とてもできないと思うのだが・・・
 
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