毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「武士の一分」
「武士の一分」を見た。一緒に行った妻は藤沢周平の原作を少し前に読んでいたし、何と言ってもSMAPヲタである以上、映画の内容はほとんど把握していたようだ。私は、雑誌や新聞などで時々散見した程度で、詳しい内容はほとんど知らなかった。第一、「武士の一分」という題名自体、何となく分かるようで実際はよく分かっていないという感じだった。「一分」とは何だろう。見終わって、言葉の意味はだいたい分かったつもりだが、念のために調べてみた。
【一分(いちぶん)】
一身の面目。一人前の人間としての名誉。体面。「―がすたる」
木村拓哉演じる三村新之丞は藩主の毒見役を勤める下級武士、妻加世(壇れい)と安らかな生活をおくっていた。ところが毒見の職務中に貝の毒にあたってしまった三村は、一命は取り留めるものの失明してしまう。苛立つ三村に加世は懸命に尽くす。夫のこれからの身の上を相談すべく訪ねた番頭(ばんがしら)島田藤弥に、口利きの代償にと、操を奪われてしまう加世。その甲斐あってか、三村は今までの石高を保証され、一生養生するようにとの沙汰を受け取る。しかし、妻の不貞を知り、「武士の一分」を守るため、加世を離縁し、盲目の身ながら島田に復讐の刃を研ぐ。
ここまでなら、上司に妻を寝取られた下級武士の憤りからの復讐劇で終わってしまうところだが、三村は己への沙汰が、藩主の鶴の一声で裁定されたものだと知り、妻加世も島田に騙されていたのだと知る。ここに至って、「武士の一分」を守るためであった復讐が、己と妻との失われた絆への意趣返しへと変わる。三村は加世のたすきを鉢巻として額に巻き、仇敵島田に挑む。
というのが私の見たこの映画のあらすじだ。劇中三村が3度その言葉を発したように、「武士の一分」を全うするための果し合いであったものが、いつしか、騙し奪われた妻の夫への真心に殉ずるための果し合いに変わって行ったところにこの物語の奥行きの深さを感じた。妻が買ったパンフレットの冒頭に、山田洋次監督が
「映画『武士の一分』はやさしい愛妻物語であり、白刃閃く復讐譚でもありますが、この映画を通して、ぼくたちは江戸時代の地方の藩で静かに生きていた先祖たちの姿を敬意を込めて描く、ということにしたいと思います」
と述べているが、見終わった今、この言葉がすっと心の中に染みとおってくる。
私は正直言って、木村拓哉には期待していなかった。木村の演技は今までTVドラマで何度か見たことがあるが、いつも同じで変わり映えのしない演技に辟易していた。妻にそんな不満をぶつけても、
「それは周りのスタッフが何も言わないで、いいよいいよとおだててばかりいるからよ」と木村の側にたって弁護する。確かにそうかもしれないが、それなら山田洋次のような大御所の監督の下で映画を撮ったのなら、彼の真価が分かるのではないだろうか、いや、化けの皮がはがれるときがやっと来た、などと意地悪な気持ちもあった。
案の定、映画が始まってすぐは、なんだやっぱりいつものキムタクじゃん!と見る気が俄かに失せてしまった。ところが、失明した三村を演じ始めてからの木村に驚いた。抑えながらも、激しい心の葛藤を演じる彼の姿に私はいつの間にか引き込まれてしまった。途中でトイレに立ちたくなったが、緊張した場面の連続で、立ち上がる機会を逸してしまった。それほど迫真の演技を木村拓哉は見せてくれた。「キムタクなどと呼ぶのではなく、俳優木村拓哉がスクリーンの中に存在していた」、私の見終わった時の第一印象だ。それは勿論、山田監督の手腕によるところが大きいのだろうが、図らずも木村拓哉の器の大きさが証明されたような気がする。(褒めすぎかな・・・)
映画館を出て、昼食を食べながら話していたときの妻の得意そうな顔つきが、この映画のすばらしさを一番物語っていたように思った。
【一分(いちぶん)】
一身の面目。一人前の人間としての名誉。体面。「―がすたる」
木村拓哉演じる三村新之丞は藩主の毒見役を勤める下級武士、妻加世(壇れい)と安らかな生活をおくっていた。ところが毒見の職務中に貝の毒にあたってしまった三村は、一命は取り留めるものの失明してしまう。苛立つ三村に加世は懸命に尽くす。夫のこれからの身の上を相談すべく訪ねた番頭(ばんがしら)島田藤弥に、口利きの代償にと、操を奪われてしまう加世。その甲斐あってか、三村は今までの石高を保証され、一生養生するようにとの沙汰を受け取る。しかし、妻の不貞を知り、「武士の一分」を守るため、加世を離縁し、盲目の身ながら島田に復讐の刃を研ぐ。
ここまでなら、上司に妻を寝取られた下級武士の憤りからの復讐劇で終わってしまうところだが、三村は己への沙汰が、藩主の鶴の一声で裁定されたものだと知り、妻加世も島田に騙されていたのだと知る。ここに至って、「武士の一分」を守るためであった復讐が、己と妻との失われた絆への意趣返しへと変わる。三村は加世のたすきを鉢巻として額に巻き、仇敵島田に挑む。
というのが私の見たこの映画のあらすじだ。劇中三村が3度その言葉を発したように、「武士の一分」を全うするための果し合いであったものが、いつしか、騙し奪われた妻の夫への真心に殉ずるための果し合いに変わって行ったところにこの物語の奥行きの深さを感じた。妻が買ったパンフレットの冒頭に、山田洋次監督が
「映画『武士の一分』はやさしい愛妻物語であり、白刃閃く復讐譚でもありますが、この映画を通して、ぼくたちは江戸時代の地方の藩で静かに生きていた先祖たちの姿を敬意を込めて描く、ということにしたいと思います」
と述べているが、見終わった今、この言葉がすっと心の中に染みとおってくる。
私は正直言って、木村拓哉には期待していなかった。木村の演技は今までTVドラマで何度か見たことがあるが、いつも同じで変わり映えのしない演技に辟易していた。妻にそんな不満をぶつけても、
「それは周りのスタッフが何も言わないで、いいよいいよとおだててばかりいるからよ」と木村の側にたって弁護する。確かにそうかもしれないが、それなら山田洋次のような大御所の監督の下で映画を撮ったのなら、彼の真価が分かるのではないだろうか、いや、化けの皮がはがれるときがやっと来た、などと意地悪な気持ちもあった。
案の定、映画が始まってすぐは、なんだやっぱりいつものキムタクじゃん!と見る気が俄かに失せてしまった。ところが、失明した三村を演じ始めてからの木村に驚いた。抑えながらも、激しい心の葛藤を演じる彼の姿に私はいつの間にか引き込まれてしまった。途中でトイレに立ちたくなったが、緊張した場面の連続で、立ち上がる機会を逸してしまった。それほど迫真の演技を木村拓哉は見せてくれた。「キムタクなどと呼ぶのではなく、俳優木村拓哉がスクリーンの中に存在していた」、私の見終わった時の第一印象だ。それは勿論、山田監督の手腕によるところが大きいのだろうが、図らずも木村拓哉の器の大きさが証明されたような気がする。(褒めすぎかな・・・)
映画館を出て、昼食を食べながら話していたときの妻の得意そうな顔つきが、この映画のすばらしさを一番物語っていたように思った。
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