毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「鈍感力」
渡辺淳一著「鈍感力」(集英社)を読んだ。渡辺淳一といえば、「失楽園」や「愛の流刑地」といった小説が有名な作家だが、その手の小説は余り好きではない私は、彼の作品をほとんど読んだことがない。ただ、与謝野晶子と鉄幹の愛を描いた「君も雛罌粟われも雛罌粟」だけは買って読んでみたのだが、上巻の半分ほどで挫折してしまった。与謝野晶子の熱い心に触れてみたいと思って読み始めたが、どうにも面白くなかった。それ以来、私の中では渡辺淳一=官能小説家という短絡的なイメージしか浮かばず、名前を見ただけで敬遠する存在となっていた。
ところが、この「鈍感力」という書は新聞などでも取り上げられることが多く、少し気にはなっていたため、書店で見かけると思わず手に取ってしまった。「鈍感力」という題名がいかにもトレンドを意識している気がしないでもなかったが、読まずに講釈を垂れるわけにはいかない。最初の2、3ページを読んでみて、これなら読み通せると思って買ってみた。
さすがに高名な小説家の筆によるだけあって、実に読みやすい。「鈍感力」を持っていれば、こんなにも暮らしやすくなるんだよ、という例が17章に分けて書いてある。確かにこれだけの例を挙げられれば、「鈍感力」が「今を生き抜く新しい知恵」であるという本の帯に書かれているコピーもあながち大袈裟ではないように思えてくる。しかし、この「鈍感力」とは何ぞや?と問われたならば、何も「新しい知恵」などではなく、「より暢んびりとおおらかに健康で、長生きできる」(P.60)力のことであると作者は繰り返し述べている。そして、「自信がないときや迷ったときに、あれこれ、じくじく考えてみたところで、どうにもなりません。こういうときはつまらぬことは考えず、もっと大胆に、自信をもって前にすすむべきです」(P.81)と読者にアドバイスを送っているが、こんなことは言い古された処世訓であり、目新しいものでもない。ただ、「鈍感力」という言葉を持ち出してきて、200ページ以上にわたってそれを礼賛する文章を書き連ねた結果、すべてを解決する神通力を持った金科玉条の如き響きを与えられたようなものである。「くよくよ考えるな」「細かいことは気にするな」「後ろを振り返るな、前だけ見てろ」と常套句を聞かされるよりも、「鈍感力を持て!」と叱咤された方が嚥下しやすいように思われる。ただ、明確な定義がなされた言葉ではないため、各自それぞれが自分なりの解釈をすることができて便利なのかもしれないが、その分言葉が勝手に独り歩きしてしまう可能性もある。「鈍感力」という言葉を隠れ蓑にして、己の能力のなさ、努力不足をカムフラージュする輩も出ないとは限らない。
さらに困ったことに、この「鈍感力」がどうやったら身に付くかを作者は具体的に教えてくれない。この書の目的が「鈍感力」の育成ではないからであろうが、「ならどうすればいいのよ?」という自ずと沸き起こってくる疑問に、作者は明確な答えを返してはくれない。読み返してみたが、辛うじて終わりのほうに「なにごとにも神経質にならず、いい意味で、すべてに鈍感で、なにごとにも好奇心を抱いて向かっていくことです」(P.221)と抽象的に述べるに留まっている。
肉体を鍛えるならば、「腕立て伏せ50回と腹筋100回は毎日欠かすな」という数値化したアドバイスも可能だが、心を鍛える方法を具体的に示すのは無理なのかもしれない。精神状態、心の持ち方というものに明確な判断基準を設けることが不可能なのだからそれも仕方のない話だろうが、それでもこうした心を扱った書物を読めば、「鈍感力の磨き方」まで伝授してほしいと願うのは自然な感情のように思う。私もこの本を読み始めた時は、心に鬱屈の塊があり、甚だ重苦しい気持ちで暮らしていた。ところがこの書を読み始めると、「くよくよせずに、鈍いくらいがちょうどいいんだ」などと、ささくれ立った心を和らげることができた。しかし、それはその時私が持っていた「鈍感力」を総動員できたからであり、もっと多くの鈍感力が必要になることもあるだろう。そういう場合に備えて、「少しでも鈍感力を養っておくべきだが、一体どうすればいいのだろう、教えてほしいな・・」などと思いながら読み終えたのだが、結局分からないままだった。
「ヒントは与えたのだから、それから先は自力で切り拓け」、という作者の意図なのかもしれない。もしそうなら、私のような甘えた根性の持ち主には、なかなか厳しい本である。
ところが、この「鈍感力」という書は新聞などでも取り上げられることが多く、少し気にはなっていたため、書店で見かけると思わず手に取ってしまった。「鈍感力」という題名がいかにもトレンドを意識している気がしないでもなかったが、読まずに講釈を垂れるわけにはいかない。最初の2、3ページを読んでみて、これなら読み通せると思って買ってみた。
さすがに高名な小説家の筆によるだけあって、実に読みやすい。「鈍感力」を持っていれば、こんなにも暮らしやすくなるんだよ、という例が17章に分けて書いてある。確かにこれだけの例を挙げられれば、「鈍感力」が「今を生き抜く新しい知恵」であるという本の帯に書かれているコピーもあながち大袈裟ではないように思えてくる。しかし、この「鈍感力」とは何ぞや?と問われたならば、何も「新しい知恵」などではなく、「より暢んびりとおおらかに健康で、長生きできる」(P.60)力のことであると作者は繰り返し述べている。そして、「自信がないときや迷ったときに、あれこれ、じくじく考えてみたところで、どうにもなりません。こういうときはつまらぬことは考えず、もっと大胆に、自信をもって前にすすむべきです」(P.81)と読者にアドバイスを送っているが、こんなことは言い古された処世訓であり、目新しいものでもない。ただ、「鈍感力」という言葉を持ち出してきて、200ページ以上にわたってそれを礼賛する文章を書き連ねた結果、すべてを解決する神通力を持った金科玉条の如き響きを与えられたようなものである。「くよくよ考えるな」「細かいことは気にするな」「後ろを振り返るな、前だけ見てろ」と常套句を聞かされるよりも、「鈍感力を持て!」と叱咤された方が嚥下しやすいように思われる。ただ、明確な定義がなされた言葉ではないため、各自それぞれが自分なりの解釈をすることができて便利なのかもしれないが、その分言葉が勝手に独り歩きしてしまう可能性もある。「鈍感力」という言葉を隠れ蓑にして、己の能力のなさ、努力不足をカムフラージュする輩も出ないとは限らない。
さらに困ったことに、この「鈍感力」がどうやったら身に付くかを作者は具体的に教えてくれない。この書の目的が「鈍感力」の育成ではないからであろうが、「ならどうすればいいのよ?」という自ずと沸き起こってくる疑問に、作者は明確な答えを返してはくれない。読み返してみたが、辛うじて終わりのほうに「なにごとにも神経質にならず、いい意味で、すべてに鈍感で、なにごとにも好奇心を抱いて向かっていくことです」(P.221)と抽象的に述べるに留まっている。
肉体を鍛えるならば、「腕立て伏せ50回と腹筋100回は毎日欠かすな」という数値化したアドバイスも可能だが、心を鍛える方法を具体的に示すのは無理なのかもしれない。精神状態、心の持ち方というものに明確な判断基準を設けることが不可能なのだからそれも仕方のない話だろうが、それでもこうした心を扱った書物を読めば、「鈍感力の磨き方」まで伝授してほしいと願うのは自然な感情のように思う。私もこの本を読み始めた時は、心に鬱屈の塊があり、甚だ重苦しい気持ちで暮らしていた。ところがこの書を読み始めると、「くよくよせずに、鈍いくらいがちょうどいいんだ」などと、ささくれ立った心を和らげることができた。しかし、それはその時私が持っていた「鈍感力」を総動員できたからであり、もっと多くの鈍感力が必要になることもあるだろう。そういう場合に備えて、「少しでも鈍感力を養っておくべきだが、一体どうすればいいのだろう、教えてほしいな・・」などと思いながら読み終えたのだが、結局分からないままだった。
「ヒントは与えたのだから、それから先は自力で切り拓け」、という作者の意図なのかもしれない。もしそうなら、私のような甘えた根性の持ち主には、なかなか厳しい本である。
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