毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
土井たか子
憲法改正の手続きを定める国民投票法案が、13日衆議院を通過した。今何故こうした法案を成立する必要があるのか私には理解できないが、憲法改正が己の義務であるかのように考えている安倍晋三にとっては、規定路線に過ぎないのかもしれない。
そんな折りしも、元衆議院議長・土井たか子と評論家・佐高信との対談集「護憲派の一分」(角川oneテーマ21)を読んだ。2007年4月10日初版発行とあるから、刊行されてまだ間もない本であり、まるで国民投票法案可決を見越したようなタイミングだ。
この本は、佐高が『「土井たか子はいかにして土井たか子となりしか」を明らかにしたいというのが私の最初のもくろみだった。「ダメなものはダメ」と改憲に待ったをかける土井たか子というパーソナリティーを通して、日本国憲法のすばらしさを知ってもらいたいという思いもあった』と語るそのままの本である。対談では佐高が聞き役に回り、「なぜ憲法九条にこだわるのか」「改憲派が変えたい”男女平等”」「アジアの中の日本」「民主政治の火を消さないために」という4つの大きなテーマに沿って、土井たか子が自らの信条を存分に披瀝している。その間に、「せいいっぱい 土井たか子半自伝」という著書の中の、生い立ちから「初当選まで」の箇所を抜粋再録したものや、三木武夫・安永良介・宇都宮徳馬各氏への弔辞・追悼文が加えられ、一冊まるごと「土井たか子本」と言ってもいいような内容になっている。
本書を通して私が読み取った土井たか子像は、今まで私が彼女に抱いていたイメージと全く齟齬を生じなかった。生身の彼女を接したことのない私は、TVなどマスコミから発信される虚像を受け取っていただけかもしれないが、本書を読む過程でその像を修正する必要はまるでなかった。私が思っていた通りの信念を持った行動の人であった。彼女は1928年生まれだから、今年79歳になる。今なお背筋をピンと伸ばした矍鑠たる姿で、歯切れのいい発言を繰り返すことができるのも護憲という筋金が一本通った生き方を続けてきた賜物であるように思う。若い世代に護憲の精神を伝えなければならないから、とても老け込んでなどいられないのだろう。
彼女のこうした生き方の原点は、1945年の神戸大空襲での空襲体験にあると言う。
「戦争は人間を人間でなくしてしまう。人を狂わせてしまう。天寿をまっとうしないで命を落とす人たちが、どれほど多いことか。最初に犠牲になるのは、罪のない子供や女性である。私は逃げまどう地獄絵図の中で、明日の生命は知れないと思った。私が「反戦」を唱えるようになった原点である」(P.107)
戦争体験のある人たちの平和に対する思い入れの深さは、私のように戦後の平和な時代に生まれ育って来た者には想像すらできないかもしれない。もう2度とあんなに苦しくて悲しい思いはしたくない、という決意を戦争が終わった時にほとんどの日本人が持ったはずだ。こうした日本国民の反戦への強い決意を世界に向けて宣言したのが、日本国憲法第九条であろう。したがって、反戦を自らの原点と考える土井たか子にとって「戦争の放棄・戦力及び交戦権の否認」を明記する憲法第九条もまた彼女の原点であるのも当然のことである。この原点を守り、これから先も永久に守り続けようという強い意志が、頑固とまで言われる力で彼女を突き動かしているのだ。
以前、太田光・中沢新一「憲法第九条を世界遺産に」を読んだとき、九条を金科玉条の如く崇め奉るのではなく、現実に生きている条文として議論すべきだ、と書いたが、その思いは本書を読み終えた今も変わらない。しかし、それは九条をアンタッチャブルとせず、現実に生きる有機体として捉え、広く議論を積み重ねていく過程が大切だという謂いである。最近の、特に安倍内閣になってからの教育基本法の改定と今回の国民投票法案のように、世論の盛り上がりなどまるでないまま、独断専行して憲法改正への外堀を埋めていくというやり方には全く賛成できない。
私が本書を買った書店では、この本のすぐ近くに、西部邁の「核武装論」という新書が並べられていた。憲法に関する議論をタブー視することなく、忌憚ない考えを表明できる環境はどんなことがあっても保証されなければならないが、さすがにこの書名には暗澹たる思いがした。しかし、そうした思い込みこそが誤解を生じる元になるものだろうから、機会があれば蛮勇を奮って読んでみなければならないと思っている。
立ち読みでいいかなあ。
そんな折りしも、元衆議院議長・土井たか子と評論家・佐高信との対談集「護憲派の一分」(角川oneテーマ21)を読んだ。2007年4月10日初版発行とあるから、刊行されてまだ間もない本であり、まるで国民投票法案可決を見越したようなタイミングだ。
この本は、佐高が『「土井たか子はいかにして土井たか子となりしか」を明らかにしたいというのが私の最初のもくろみだった。「ダメなものはダメ」と改憲に待ったをかける土井たか子というパーソナリティーを通して、日本国憲法のすばらしさを知ってもらいたいという思いもあった』と語るそのままの本である。対談では佐高が聞き役に回り、「なぜ憲法九条にこだわるのか」「改憲派が変えたい”男女平等”」「アジアの中の日本」「民主政治の火を消さないために」という4つの大きなテーマに沿って、土井たか子が自らの信条を存分に披瀝している。その間に、「せいいっぱい 土井たか子半自伝」という著書の中の、生い立ちから「初当選まで」の箇所を抜粋再録したものや、三木武夫・安永良介・宇都宮徳馬各氏への弔辞・追悼文が加えられ、一冊まるごと「土井たか子本」と言ってもいいような内容になっている。
本書を通して私が読み取った土井たか子像は、今まで私が彼女に抱いていたイメージと全く齟齬を生じなかった。生身の彼女を接したことのない私は、TVなどマスコミから発信される虚像を受け取っていただけかもしれないが、本書を読む過程でその像を修正する必要はまるでなかった。私が思っていた通りの信念を持った行動の人であった。彼女は1928年生まれだから、今年79歳になる。今なお背筋をピンと伸ばした矍鑠たる姿で、歯切れのいい発言を繰り返すことができるのも護憲という筋金が一本通った生き方を続けてきた賜物であるように思う。若い世代に護憲の精神を伝えなければならないから、とても老け込んでなどいられないのだろう。
彼女のこうした生き方の原点は、1945年の神戸大空襲での空襲体験にあると言う。
「戦争は人間を人間でなくしてしまう。人を狂わせてしまう。天寿をまっとうしないで命を落とす人たちが、どれほど多いことか。最初に犠牲になるのは、罪のない子供や女性である。私は逃げまどう地獄絵図の中で、明日の生命は知れないと思った。私が「反戦」を唱えるようになった原点である」(P.107)
戦争体験のある人たちの平和に対する思い入れの深さは、私のように戦後の平和な時代に生まれ育って来た者には想像すらできないかもしれない。もう2度とあんなに苦しくて悲しい思いはしたくない、という決意を戦争が終わった時にほとんどの日本人が持ったはずだ。こうした日本国民の反戦への強い決意を世界に向けて宣言したのが、日本国憲法第九条であろう。したがって、反戦を自らの原点と考える土井たか子にとって「戦争の放棄・戦力及び交戦権の否認」を明記する憲法第九条もまた彼女の原点であるのも当然のことである。この原点を守り、これから先も永久に守り続けようという強い意志が、頑固とまで言われる力で彼女を突き動かしているのだ。
以前、太田光・中沢新一「憲法第九条を世界遺産に」を読んだとき、九条を金科玉条の如く崇め奉るのではなく、現実に生きている条文として議論すべきだ、と書いたが、その思いは本書を読み終えた今も変わらない。しかし、それは九条をアンタッチャブルとせず、現実に生きる有機体として捉え、広く議論を積み重ねていく過程が大切だという謂いである。最近の、特に安倍内閣になってからの教育基本法の改定と今回の国民投票法案のように、世論の盛り上がりなどまるでないまま、独断専行して憲法改正への外堀を埋めていくというやり方には全く賛成できない。
私が本書を買った書店では、この本のすぐ近くに、西部邁の「核武装論」という新書が並べられていた。憲法に関する議論をタブー視することなく、忌憚ない考えを表明できる環境はどんなことがあっても保証されなければならないが、さすがにこの書名には暗澹たる思いがした。しかし、そうした思い込みこそが誤解を生じる元になるものだろうから、機会があれば蛮勇を奮って読んでみなければならないと思っている。
立ち読みでいいかなあ。
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