goo

「個人的な愛国心」

 日垣隆著「個人的な愛国心」(角川Oneテーマ21)を読んだ。日垣は1958年生まれで私と同い年だ。彼の著作は少し前に「いい加減にしろよ(笑)」(文藝春秋)を読んで、その中の細木和子に関する一文が何より面白かった。細木のしたたかさを糾弾するのではなく、むしろ楽しんでいるような書きぶりが出色だった。(「知的ストレッチ入門」も読もうと思って買ってきたが、部屋の隅で埃を被っている)
 最近新書をよく読むが、書き手は大きく分けて次の3つに分類できる。
  ①小説家
  ②大学教授などの研究家
  ③評論家ならびにジャーナリスト
①の小説家は、文章はさすがに読み易くて論旨もうまく伝わってくる。しかし、書き下ろしの部分が少なく、内容がつぎはぎだらけで不満を感じるものが時々あるのは残念だ。②の大学教授は論理的な組み立てには秀でているが、机上の空論のように言葉が独り歩きして、現実と遊離しているように思われることがある。その点③のジャーナリストの文は現実に密着した内容が中心となっており、説得力はかなりある。文章に論理性が劣るものがあるのも事実だが、問題意識の高さがそれを補って余りある場合も多く、思わず引き込まれてしまう。
 日垣はジャーナリストの肩書きを持っているから③に入るだろうが、彼の文章はとにかく強い。その強さは怒りのように感じられることさえある。彼が舌鋒鋭く切りつけるのは世の不正であり、理屈の通らないことである。腰抜け野郎である私から見れば、そこまで言って大丈夫なの?とハラハラするくらい己の考えを貫き通す。それは、「私は毎日三冊程度の本を読む。テレビ視聴時間も長い」と言うように、豊富な情報量(それに取材)を論拠としているのは明らかであるが、それ以上に次のような思いが彼の根底にあるからだと思う。

 私は抽象的な「愛国心」なるものにどっぷり浸っておらず、かと言ってインターナショナルな「万国の労働者」でもありません。
 そもそも私には日本を「愛している」という実感はないのですが、「好きな国だ」と思っていますし、生涯を通じて強い関心を抱いています。日本にたくさん希望をもっており、絶望もしていません。    (「あとがき」)

 私は、声高に愛国心を称揚しようとする昨今の政府の方針には強い違和感を感じている。国家主義的な愛国心ではなく、この本の題名となっている「個人的な愛国心」こそが大切なことだと思っている。強制などされず、日本の国土を愛し、家族や友人を愛する気持ちが自然に沸き起こってくることが愛国心の最も純粋な発露であると思う。こうした一人一人の「個人的な愛国心」が強まってこそ、よりよい国が作り出されるはずだ。国という大きな枠組みを維持しようと躍起になるよりも個のレベルでの視点を重視するような施策を為政者たちが心がけない限り、真の意味での愛国心など育たないと思う。現代の日本ではまったくその逆の政治しか行われていないのが悲しい・・。
 
 本書は73編の短文から成り立っている。印象深い文章は幾つかあるが、その中でも一番心に残った文の一部を以下に引用してみる。

 私はこの国にも賢明な長老がたくさん必要だと思っている。
 例えば司馬さんの進言なら、軽薄を通り越して「政局だけが趣味」の小泉純一郎氏も真剣に聞いたのではないか。ないものねだりをしても詮方ないのだが、読売のドン渡邉恒雄氏をも含めて、「一度全てを失った」経験をもつ長老たちの言葉は、しばしば重い。
 黒柳徹子も司馬遼太郎も渡邉恒雄も、おそらく日本を誇りに思いたいに違いないが、お上に媚びておらず、保身のために「言葉を飲み込む」ことを潔しとせず、堂々と説教をする。
 説教が、日本で、今ほど嫌われている時代はない。説教は原理原則に基づき若者を導く営為である。エネルギーと知恵が要る。  (『週刊誌50年、「徹子」30年、司馬さん10年』)

やはり説教ジジイは必要だ。誰にも負けないくらいの説教ができるよう、私はもっと勉強しなければならない。



コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )