毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「海辺のカフカ・下」
「海辺のカフカ・下」を読み終えた。意外と早く読み通すことができたが、それはこの本が面白くて巻を置くことができなかったわけではない。むしろ、もう止めようかな、と思いながらもずるずると最後まで読んでしまった、という感じである。何よりも暇だったからだと思う。じゃなきゃこんなに早く読めない。
文庫本で1,000ページにも及ぶ長編小説を読み終えた後には充足感が残るはずだ。一つの小説世界が完結したのだから何らかの感慨はあってもいいはずだ。しかし、「海辺のカフカ」を読み終えても「何だ、これは!」という思いしか残らなかった。私は新しい小説を余り読んだことがないし、「最近の小説ってこうなんだよ」と物知り顔で解説してくれる人も身近にいないから、こんな感想を持ってしまうのかもしれない。しかし、面白くないものは面白くない。物語の古典的な骨組みである起承転結にのっとって考えれば、「結」が「結」になっていない。「起承転」までは現実から遊離した設定が目立つものの、語りのうまさで先を読み続けさせてくれた。それも「結」で、それまでの荒唐無稽さにある程度の論理的整合性が与えられ、謎解きが行われるものだと思い込んでいたからで、こうも見事にその期待を裏切られてしまうと徒労感と虚脱感でいっぱいになってしまう。やたら神秘的なベールに包んでおきながら、最後までそのベールを剥がさずに終えてしまっていいものなのだろうか。隔靴掻痒の思いばかりで苛立ちさえ感じた。
とは言っても、それは初めから意図されたことなのかもしれない。「海辺のカフカ」という題名に、作者のそうした思いが表現されているように思う。「海辺のカフカ」というのは、小説中である女性が作って大ヒットした曲の題名であり、海岸で描かれた少年の絵もそう呼ばれている。どちらも作中で重要な意味を与えられているが(結局は狂言回しの役割しかないように思えるが)、「カフカ」には特に重要なメッセージがこめられているように思う。これは勿論、不条理の作家として知られるドイツ語圏の作家F.カフカのことである。その代表作「変身」は、朝起きたら大きな虫になっていたザムザという男のモノローグであるが、どうして虫になったのか結局は何も明かされない。虫になったという不条理な事実から始まっている。不条理は論理的な説明ができないからこそ不条理なのである。論理的説明を拒否していると言ってもいいかもしれない。それと同じように、「海辺のカフカ」もなんらの説明もされないまま、人が死に、生霊が現れ、もう一つ別の世界への入り口が開かれる。こうしたことに科学的な説明がなされても胡散臭いだけかもしれないが、SF小説やファンタジー小説ではないはずだから(たぶん)、少しは納得できる説明を期待していたのだが、私が抱いた幾つかの「なぜ?」は不条理なままで終わってしまった。
作中でやたら繰り返された言葉が、「メタファー」及びそれの派生語だった。その大体の意味は分かっていたつもりだが、あまりに頻発されるものだから、正確な意味を知っておくべきだと思い調べてみた。
【メタファー(metaphor)】隠喩(いんゆ)、暗喩(あんゆ)ともいい、言語表現における修辞技法のひとつ。比喩のうち、喩えであることを明示する「~のようだ」のような形式を用いないものを指す。典型的には「人生はドラマだ」のような形式をとる。物事のある側面を、より具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え、簡潔に表現する機能をもつ。
これをヒントに考えてみた。「海辺のカフカ」自体を、一つの大きなメタファーとして捉えればどうだろう。例えば、「海山の恩」というメタファーは「海よりも深く、山よりも高い恩」ということを表しているが、そう理解するにはこの修辞を読んだり聞いたりした者が、頭の中で変換作業をしなければならない。しかし、暗喩という日本語が示す如く、「~のように」という直接的な言葉がないだけ、聞き手が恣意的に解釈することも可能になり、話し手の意図を曲解してしまう危険もある。そうしたメタファーを「海辺のカフカ」で1,000ページにも渡って、読者に投げかけ続けたとするならば、それは恐れを知らぬ壮大な試みであろう。
しかし、読み終えたばかりの私にはそのメタファーが何を示しているのか、まったく理解できていない。己の能力の足りなさを棚に上げて文句ばかりつけてはいけないかもしれないが、今の時点では「生きること」に対してかな、と漠然と感じられるだけである。「現代を生きるうつろな人間たちがその空白を埋めるために何をしなければならないのか」、などと考えてもみたのだが、あまりに漠とし過ぎている。それも私の心の入り口が重く閉じられていて、想像力の羽をのばす力がないからかもしれない。
文庫本で1,000ページにも及ぶ長編小説を読み終えた後には充足感が残るはずだ。一つの小説世界が完結したのだから何らかの感慨はあってもいいはずだ。しかし、「海辺のカフカ」を読み終えても「何だ、これは!」という思いしか残らなかった。私は新しい小説を余り読んだことがないし、「最近の小説ってこうなんだよ」と物知り顔で解説してくれる人も身近にいないから、こんな感想を持ってしまうのかもしれない。しかし、面白くないものは面白くない。物語の古典的な骨組みである起承転結にのっとって考えれば、「結」が「結」になっていない。「起承転」までは現実から遊離した設定が目立つものの、語りのうまさで先を読み続けさせてくれた。それも「結」で、それまでの荒唐無稽さにある程度の論理的整合性が与えられ、謎解きが行われるものだと思い込んでいたからで、こうも見事にその期待を裏切られてしまうと徒労感と虚脱感でいっぱいになってしまう。やたら神秘的なベールに包んでおきながら、最後までそのベールを剥がさずに終えてしまっていいものなのだろうか。隔靴掻痒の思いばかりで苛立ちさえ感じた。
とは言っても、それは初めから意図されたことなのかもしれない。「海辺のカフカ」という題名に、作者のそうした思いが表現されているように思う。「海辺のカフカ」というのは、小説中である女性が作って大ヒットした曲の題名であり、海岸で描かれた少年の絵もそう呼ばれている。どちらも作中で重要な意味を与えられているが(結局は狂言回しの役割しかないように思えるが)、「カフカ」には特に重要なメッセージがこめられているように思う。これは勿論、不条理の作家として知られるドイツ語圏の作家F.カフカのことである。その代表作「変身」は、朝起きたら大きな虫になっていたザムザという男のモノローグであるが、どうして虫になったのか結局は何も明かされない。虫になったという不条理な事実から始まっている。不条理は論理的な説明ができないからこそ不条理なのである。論理的説明を拒否していると言ってもいいかもしれない。それと同じように、「海辺のカフカ」もなんらの説明もされないまま、人が死に、生霊が現れ、もう一つ別の世界への入り口が開かれる。こうしたことに科学的な説明がなされても胡散臭いだけかもしれないが、SF小説やファンタジー小説ではないはずだから(たぶん)、少しは納得できる説明を期待していたのだが、私が抱いた幾つかの「なぜ?」は不条理なままで終わってしまった。
作中でやたら繰り返された言葉が、「メタファー」及びそれの派生語だった。その大体の意味は分かっていたつもりだが、あまりに頻発されるものだから、正確な意味を知っておくべきだと思い調べてみた。
【メタファー(metaphor)】隠喩(いんゆ)、暗喩(あんゆ)ともいい、言語表現における修辞技法のひとつ。比喩のうち、喩えであることを明示する「~のようだ」のような形式を用いないものを指す。典型的には「人生はドラマだ」のような形式をとる。物事のある側面を、より具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え、簡潔に表現する機能をもつ。
これをヒントに考えてみた。「海辺のカフカ」自体を、一つの大きなメタファーとして捉えればどうだろう。例えば、「海山の恩」というメタファーは「海よりも深く、山よりも高い恩」ということを表しているが、そう理解するにはこの修辞を読んだり聞いたりした者が、頭の中で変換作業をしなければならない。しかし、暗喩という日本語が示す如く、「~のように」という直接的な言葉がないだけ、聞き手が恣意的に解釈することも可能になり、話し手の意図を曲解してしまう危険もある。そうしたメタファーを「海辺のカフカ」で1,000ページにも渡って、読者に投げかけ続けたとするならば、それは恐れを知らぬ壮大な試みであろう。
しかし、読み終えたばかりの私にはそのメタファーが何を示しているのか、まったく理解できていない。己の能力の足りなさを棚に上げて文句ばかりつけてはいけないかもしれないが、今の時点では「生きること」に対してかな、と漠然と感じられるだけである。「現代を生きるうつろな人間たちがその空白を埋めるために何をしなければならないのか」、などと考えてもみたのだが、あまりに漠とし過ぎている。それも私の心の入り口が重く閉じられていて、想像力の羽をのばす力がないからかもしれない。
コメント ( 7 ) | Trackback ( 0 )