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オタク

 岡田斗司夫「オタクはすでに死んでいる」(新潮新書)を読んだ。これで、ここ1年近くのうちに岡田の著作を3冊読んだことになるが、別に彼のファンでもないし、オタクに興味があるわけでもない。「世界征服は可能か」は、何が言いたかったのかイマイチ分からなかったし、「いつまでもデブと思うなよ」はオタクの虚仮の一念というのはすごいパワーを生むもんだな、と妙な感心しか浮かばなかった。彼の著作には、同じ世代の人間として共感を持てることも多々あるが、やはり私はオタクと呼ばれる人々とは住む世界が違うと思わざるを得ない。まず何よりも、まったく己の外見に思慮を及ぼさない彼らの生き方を私には受け入れることができない。私も今はただのしょぼくれた親父だが、その昔は結構ビジュアル系などと自負していただけに、どうにも彼らとは感覚が合わない・・。
 しかし、そうは言っても、自分の中にオタク的な部分があるのは否めない。このブログだって私なりのオタク的趣味に溢れていると言えば言えるかもしれない。一人で毎日妄執的に積み重ねた結果が、このブログでの1100の記事であると思えば、私も立派なブログオタクなのかもしれない。そう思えば、やはりこの本の題名に惹かれない訳にはいかない。妻だって、スマヲタを自認しているわけだし・・。

 ところで、オタクって何だろう。分かるようでいてその実分かっていない、私からは縁遠いと思いたい不思議な種族について、岡田は「子供っぽい趣味を選び、それに関して、精神力と知性でもって世間の目に対抗していく存在だ」(P.138)と定義する。なるほど、オタキングと自他共に認める人物だけあって、定義自体もふるっている。しかもオタクを筆者を含めた第一世代から、筆者が理解できない「萌え」という言葉で説明するのが便利な第三世代までに区分して、それぞれの特徴を明らかにしているのは興味深い。
 第一世代・・今の40代の者たちで、オタク趣味と社会性があまり問題なく両立していて、自分がオタクであることにあまり深く悩まない。そのため、いつの間にか社会からドロップアウトしていることが多く、なんとなく世捨て人のように暮らしている。
 第二世代・・現在の20代後半から30台半ば過ぎくらいまでの、M君事件によって差別された苦い思い出を持っている世代。オタク論が大好きで、「なんでこんなものが好きなんだ」という問題意識とそれを世間に認めてもらいたい強烈な願望を持っている。
 第三世代・・現在の20代前半が中心で、「生まれたときからオタク商品に囲まれて」いて、オタク文化について深刻な疑問を持たずに育った世代。筆者が問題とするのは、この世代、さらには第4世代(働きたくない=オトナになるのは損=だから子供でいられるオタク子供文化を好む人たち)をふくんだ「萌え」という言葉で一括りにされる世代のことである。

 オタクのこうした歴史をひも解きながら、筆者が「死んだ」と述べるのは、従来のオタクが共有していた共通思想のことである。「共通文化というものを失ってしまった、もしくは相互理解という幻想を失ってしまった以上、オタクはもういなくなってしまった」(P.155)とさえ断言する。オタク第三世代にあるのは「萌え」という感覚のみであり、第一・第二世代が持っていた誇りやプライドや自信までがなくなってしまい、「私たち」というオタク間の共通意識もなくなってしまった。それによって、自分の気持ちを最優先させる「自分の気持ち至上主義」(短期的な感情=「今の気持ち」だけで判断する)が蔓延してしまったと筆者は分析する。それは何もオタクの世界に限ったことではなく、大人は『「品格」「見識」を持つべきだという価値観、すなわち「かつての日本人」や「昭和という時代」そのものが死んでしまった』ことを表していると述べる。(P.173)
 なんだかオタクによってここまで現代を語られてしまうと本当かな?と思ってしまうが、ならば、子供化してしまった私たちは一体どう生きていけばいいのか、という疑問が浮かんでくる。それに対して筆者は、
 自分の『純粋さ=子供な部分』を守るのは、自分自身の『大人な知恵と生き方』です。(P.177)
と答える。さらには、「堂々とオタク趣味を楽しみたかったら、ちゃんと働いて稼げばいい」と、至極まっとうな人生訓でこの書を締めくくっている。
 
 「ここまで読んでこんな道徳の教科書に出てくるような陳腐な結論かよ!!」と正直思ったが、こんなことを改めて語らねばならぬほど、今の私たちは幼稚化しているのか・・と心配になってしまった。
 やばいね、この国は・・。
 
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