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 塾の教室の窓から、向かいの崖で満開になっている藤の花が見える。毎年新緑の候に先駆けて、淡い紫色の花房が垂れ下がる。崖を覆わんばかりに咲き誇る様は、遠目にもきれいだ。


 藤はつるを他の木に巻きつけて成長する寄生植物だ。その性質を利用して藤棚というものを作り、古来から人はその花を愛でてきたが、私もたまには風流心を起こして花を楽しみたくなった。川の土手ぎりぎりのところまで近づいていって、写真を撮ってみた。

  

 宿主である木につたが絡み付いてどこからどこまでが藤なのかよく分からない。野生の藤ではこれくらいが精一杯なのか、近くで見ると遠目ほどきれいではない。ちょっとがっかりしたが、先日自転車で市内を横断したときにある家の壁を越えて咲き乱れていた藤の花の写真を撮ったことを思い出した。


 きっと丹精込めた世話がなされているのだろう、花の色の濃さが違う。花弁も大振りで豪華な感じを受ける。立派だ・・。しかし、好きなように伸び放題に伸びた野生の藤の方が私は好きだ。たとえ貧相な感を受けようとも、己の意に従って四方八方に伸び広がる自由さには憧れる。だが、濃い紫は毒々しくてあまり好きではない。紫は淡いくらいがちょうどいい。なにせ赤と青を混ぜ合わせてできるのが紫だから、濃い紫は少々暑苦しい・・。
 思えば、紫というのは、不思議な色だ。「紫雲」といえば、仏がこの雲に乗って表れると言われるほど、めでたい雲だとされる。聖徳太子の定めた冠位十二階では、紫は最上位の大徳の冠の色とされたし、古代ローマでも高貴な色とされたようだから、由緒正しい色のはずだ。しかし、現代では紫色の服を着ている人はあまりいないし、いたとしても悪趣味ばかりが目立って、その人のセンスは最悪だと思われがちだ。 何故だろう?
 
   瓶にさす藤の花ぶさみじかければ 畳の上にとどかざりけり

という正岡子規の歌には、藤の紫が妖力めいた効果を与えるているように思う。白梅から始まった春が、桜のピンク色で最初のピークを迎え、水仙・菜の花・タンポポの黄色で私たちの眼を和ませた後、今は藤の紫でゆっくりと別れを告げようとしている。この後は燃え上がるようなツツジの花弁とともに深い新緑の季節を迎える・・。春と初夏の境界として紫は十分な役割を果たしている。
 しかし、日本の季節の移ろいは、なんて贅沢なんだろう・・・。                      

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