goo

ダウスン

 南條竹則「悲恋の詩人 ダウスン」(集英社新書)を読んだ。私はダウスンなる詩人をまったく知らなかった。ただこの本を書店で見つけたとき、「悲恋の詩人」などという大仰な形容がはたしてふさわしい詩人なのかどうか、少しばかり興味を引かれた。手にとってプロローグを読んでみたところ、映画「風と共に去りぬ」の原題や「酒と薔薇の日々」という言葉も、ダウスンの詩の一句であると書かれていて、いやがうえにも興味が増した。詩人の生き様を読むのはしばしば暗澹たる思いに駆られることが多いし、きっとこのダウスンという詩人も破滅的な人生を送ったことだろうと予想もできた。だが、他人の破天荒な人生ほど興味をそそられるものはない。自分とはまったく違う次元で生きた人間の一生を覗き見たところで、何も得るものはないだろうが、かえって客観視できるだけ身につまされることは少なくてすむ。まったくの興味本位でいられる点が楽でいい。そんな怖いもの見たさな心持ちで、最後まで読んでみた。

 ダウスンは1867年にロンドンで生まれながらも、幼少期の大部分をフランスで過ごしたという。そのためものの考え方が「コスモポリタン的だった」と著者は述べているが、それは彼が「究極の詩人」と呼ばれることと深い関係をもっていないようだ。ならば、ダウスンはなぜ「究極の詩人」であると言われるのだろう。著者によれば、ダウスンの人生は「貧苦と悲恋と不治の病と、そして酒とに彩られていて、まさに”不幸なる詩人”の典型」であり、「破滅に向かう彼の人生が、倦怠と絶望を歌うその詩と見事な諧調を奏でている」からだと言う。たしかにかつては裕福だった実家は事業が傾き始め、困窮の度を深めていく。その末に両親が自殺してしまい家庭は消滅・・。また、「心の君」と深く思いを寄せていた少女アデレイドに求婚したものの受け入れられず、少女は他の男と結婚してしまう・・。さらに父祖伝来の病とも言うべき結核に冒された身は次第に弱まっていく・・。こうした八方塞がりの状況下で自棄にならぬほど人は強くない。「こんなに運が悪い人がやけくそになって、何が悪いといいたくなる」と著者は同情しているが、「ダウスン伝説」なるものが一人歩きしたほど、ダウスンは酒に溺れる・・。
 これほど裏目続きの人生も珍しいと思うが、それでも詩人は魂まで汚したりはしないのだろう。それこそが詩人と呼ばれる種族が凡才とは違う点だ。さもなければ、次のような詩をものすることなどできるはずもない。(ダウスンのもっとも有名な詩と言われる「シナラ」を尾島庄太郎の訳で。矢野峰人訳は高雅すぎて近寄りがたいので)

  おもえば昨日の晩のこと、女と接吻(キス)していたら
  ふと浮かぶ貴女(きみ)の顔、おお、シナラ、接吻をしいしい
  酒のめば、この胸にふりそそぐ貴女の吐息よ。
  またしても、よみがえる恋の心のやるせなさ
   ああ、やるせなく、しおれかえって居はしたが
  シナラよ、ぼくはぼくなりに、思うは貴女のことばかり。

  夜っぴてぼくの胸の上に、女の胸が動悸うち、
  愛と眠りをむさぼって、女は夜中(よじゅう)抱かれていた。
  売笑婦(おんな)の紅い唇は、真実甘くはあったけど、
  またしても、よみがえる恋の心のやるせなさ、
   灰色のうすらあかりの明けがたにめざめては。
  シナラよ、ぼくはぼくなりに、思うは貴女のことばかり。

  あれもこれもと打ち忘れ、ただ風まかせ、
  群がる仲間と浮れ騒ぎ、薔薇の花々なげあげて、
  命なき白百合の貴女の面忘れようとて踊ったが、
  またしても、よみがえる恋の心のやるせなさ、
   踊り続くそのひまの、全く長いやるせなさ、
  シナラよ、ぼくはぼくなりに、思うは貴女のことばかり。

  もっと狂った音楽を、強い酒を、とわめいたが、
  酒と歌とにおさらばすれば、火は消えて後は闇、
  貴女の姿は現れて、シナラよ、夜は貴女のもの。
  またしても、よみがえる恋の心のやるせなさ、
   いとしい貴女の唇を憧れ求めるこの気もち。
  シナラよ、ぼくはぼくなりに、思うは貴女のことばかり。


 なんだか、ダウスンの人生を要約したような詩・・。酒に溺れながらも己を見つめる目は確かということか・・。
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )