平成21年2月28日(土)15℃で3月下旬の陽気が続いています。
2月22日夕方,NHKテレビで予告編がありましたが、白洲正子の夫で
太平洋戦争~戦後日本の混乱期に大きな役割を果たした日本人
として、最近注目を浴び始めた 白洲次郎という人がいます。
今晩NHKTVで午後9時~3回シリーズドラマ化されています。
一昨年『旧白洲邸 武相荘』を訪れましたが、非常に興味深い生き方です。
白洲次郎の生い立ち
明治35年(1902年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に
白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。
後に兵庫県川邉郡伊丹町(現・伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居。
大正8年(1919年)、旧制第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)を卒業。
神戸一中時代はサッカー部・野球部に所属し
手のつけられない乱暴者として知られ、
当時すでにペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し
後のカーマニア・「オイリー・ボーイ」の片鱗を見せていた。
同級生には後に作家で文化庁長官となった今日出海、
中国文学者で文化功労者となった吉川幸次郎がいる。
イギリス留学
神戸一中を卒業後、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学し
西洋中世史、人類学などを学ぶ。
7代目ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビング(愛称:ロビン)と終生の友となる。
ロビンと、ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行。
大正14年(1925年)、ケンブリッジ大学を卒業。
帰国
昭和3年(1928年)、神戸市神戸区(現・中央区)で
父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、
帰国を余儀なくされる。
昭和4年(1929年)、英語新聞の「ジャパン・アドバタイザー」に就職し記者となる。
伯爵・樺山愛輔の長男丑二の紹介でその妹 正子と知り合って結婚に至り、
京都ホテルで華燭の典を挙げた。
結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。
その後、セール・フレイザー商会取締役、
日本食糧工業(後の日本水産)取締役を歴任する。
この間、海外に赴くことが多く
駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得、
イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。
またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。
近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子文隆の
目付役を押しつけられていたこともあった。
「ヨハンセン・グループ」
昭和15年(1940年)、来るべき日英・米戦争、それに伴う食料不足を予期し
事業から手を引き、
東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現・東京都町田市能ヶ谷町)の古い農家を購入し、
武相荘(ぶあいそう)と名付けて隠棲。
カントリー・ジェントルマンを自称する。
農業に励む日々を送る一方で吉田を中心とする
「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わり、終戦工作に奔走し
ここから次郎の「昭和の鞍馬天狗」としての活動が始まる。
同年に、長女・桂子がうまれる。
終戦連絡中央事務局
昭和20年(1945年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で
終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。
ここから、次郎の
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を向こうに回した
戦いの火蓋が切られる。次郎は、GHQ/SCAPに対して
当時の日本政府および日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、
イギリス仕込みの流暢な英語とマナー、そして本人が元々持っていた
押しの強さと原理原則(プリンシプル)を重視する性格から
主張すべきところは頑強に主張し、GHQ/SCAP某要人をして
「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。
昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に
「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して
「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、
持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。
マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが
次郎に申し訳ないと謝り、ちゃんとテーブルを用意させた。
GHQ/SCAP民政局長のコートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと言われ
「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と逆襲した…
などGHQ / SCAPとの交渉の間に生まれたエピソードは数多い。
風の男http://www.nhk.or.jp/drama/shirasujirou/
その妻、 白洲正子は、1910年1月7日 東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)に父樺山愛輔と母・常子の次女として生まれる。
祖父は樺山資紀(海軍大将、伯爵)、母方の祖父に川村純義(海軍大将、伯爵)。
1914年能を習い始める。1924年女性として初めて能楽堂の舞台へあがる。
学習院女子部初等科修了。渡米しハートリッジ・スクールに入学。
1928年 米ハートリッジ・スクール卒業。 1929年白洲次郎と結婚。
1942年 東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現・東京都町田市)の古農家を購入。
この頃から細川護立に古美術の手ほどきを受ける。
1943年 鶴川村へ転居。 1947年 華族令廃止。
1964年 随筆『能面』で第15回読売文学賞受賞。
1972年 随筆『かくれ里』で第24回読売文学賞。
1998年 肺炎のため入院先の病院で死去(享年88歳)
薩摩志士の伯爵家に生まれた自らの性質や出自を強く意識し、
晩年までその生涯を通した。
骨董や工芸に深い造詣を持つとされた青山二郎を師と目した。
幼少期より梅若流の能の舞台にあがり、能に造詣が深く、
先の青山二郎や小林秀雄の薫陶を受け骨董を愛し、
日本の美についての随筆を多く著す。
梅原龍三郎や、晩年は政治家の細川護熙との交友もあった。
また名人といわれた能楽師・友枝喜久夫の仕舞の会を自宅で開き、
渡辺保も参加していた。
1980年代から、古典美に憧れる中年婦人たちのカリスマ的存在となり、
死後もなお人気は高く、再編集の著作が出されている。
『白洲正子全集』全14巻がある。墓所は兵庫県三田市にある心月院。
正子の著書
- お能 昭和刊行会 1943 のち講談社文芸文庫
- たしなみについて 雄鶏社・新書 1948
- 梅若実聞書 能楽書林 1951
- 私の芸術家訪問記 緑地社 1955
- お能の見かた 創元選書 1957
- 韋駄天夫人 ダヴィッド社 1957 のち平凡社ライブラリー
- きもの美 選ぶ眼・着る心 徳間書店 1962 のち光文社知恵の森文庫
- 心に残る人々 講談社 1963 のち文芸文庫
- 能面 求竜堂 1963
- 花と幽玄の世界 世阿弥 宝文館出版 1964 のち講談社文芸文庫
- 巡礼の旅 西国三十三カ所 淡交新社 1965
- 「西国巡礼」と改題、旺文社文庫、講談社文芸文庫
- 栂尾高山寺明恵上人 講談社 1967
- 古都残影 写真:浅野喜市 駸々堂出版 1970
- 古典の細道 新潮選書 1970 のち講談社文芸文庫
- かくれ里新潮社 1971 のち講談社文芸文庫
- 謡曲・平家物語紀行 平凡社 1973
- ものを創る 読売新聞社 1973
- 近江山河抄 駸々堂出版 1974 のち講談社文芸文庫
- 明恵上人 新潮選書 1974 のち講談社文芸文庫
- 古典夜話 けり子とかも子の対談集 円地文子 平凡社 1975
- 十一面観音巡礼 新潮社 1975 のち講談社文芸文庫
- やきもの談義 加藤唐九郎対談 駸々堂出版 1976
- 私の百人一首 新潮選書 1976 のち講談社文芸文庫
- 滝 駸々堂出版 1977
- 世阿弥を歩く 権藤芳一共著 駸々堂出版 1978
- 魂の呼び声 能物語 平凡社 1978 「能の物語」講談社現代文庫
- 道 新潮社 1979
- 鶴川日記 文化出版局 1979
- 日本のたくみ 新潮社 1981 のち文庫
- 旅宿の花 謡曲平家物語 平凡社 1982 のち講談社文芸文庫
- 私の古寺巡礼 法蔵館 1982 のち講談社文芸文庫
- 縁あって 青土社 1982
- 白洲正子著作集 全7巻 青土社 1984-85
- 花にもの思う春 白洲正子の新古今集 平凡社 1985 のちライブラリー
- 草づくし 吉越立雄写真 新潮社 1985(とんぼの本)
- 木 なまえ・かたち・たくみ 住まいの図書館出版局 1987 のち平凡社ライブラリー
- 西行 新潮社 1988 のち文庫
- 遊鬼 わが師わが友 新潮社 1989 のち文庫
- 老木の花 友枝喜久夫の能 求竜堂 1989 のち講談社文芸文庫
- いまなぜ青山二郎なのか 新潮社 1991 のち文庫
- 雪月花 神無書房 1991
- 姿 井上八千代・友枝喜久夫 渡辺保共著 求竜堂 1993
- 対話 「日本の文化」について 神無書房 1993
- お能の見方 吉越立雄写真 新潮社 1993(とんぼの本)
- 夕顔 随筆集 新潮社 1993 のち文庫
- 風姿抄 世界文化社 1994
- 白洲正子自伝 新潮社 1994 のち文庫
- 日月抄 世界文化社 1995
- 名人は危うきに遊ぶ 新潮社 1995 のち文庫
- 白洲正子私の骨董 求竜堂 1995
- 雨滴抄 世界文化社 1996
- 風花抄 世界文化社 1996
- 両性具有の美 新潮社 1997 他
他にも多数著作があります。