緑ヶ丘・第二幼稚園 最新かがやき日記

緑ヶ丘・第二幼稚園のかがやく子ども達の成長を見守り、親も教師も園長も子どもに負けず共に成長する日々を綴った日記です。

リンカーン

2009年01月20日 20時20分27秒 | 近頃思うこと・政治・経済・時事問題

平成21年1月20日(火)

今日は、深夜まで起きている人が多いかもしれない。

歴史的な出来事をテレビの衛星放送ライブで視聴したいと、オバマ氏の

大統領就任式を「どんな演説なのか?」期待を持って待ちわびている。

大統領になる時間は、首都ワシントンの現地時間の正午です。

その直後に就任演説が予定されていますが、現地は厳寒の零下5~10℃。 

でも、続々とひと目初の黒人大統領 オバマ氏を見たいと集まっているのです。

オバマ氏の尊敬する人物の中でも一番は、リンカーンです。

リンカーンといえば、演説が有名です。

実は、私も、大学時代にESSに入部して、すぐに暗誦コンテストに挑戦

する時に この演説が課題の一つでしたから、いくつかの詩文と一緒に

憶えました。懐かしい思い出です。

さて、リンカーンについて今日は少し復習してみたいと思っています。

エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)

(1809年2月12日 - 1865年4月15日)は、第16代アメリカ合衆国大統領。

初の共和党所属大統領。エイブ(abe)の愛称で呼ばれ、

オネスト・エイブ(Honest Abe)、レール・スプリッター(the Rail Splitter)、

偉大な解放者(the Great Emancipator)、また奴隷解放の父とも呼ばれました。

身長193 cmと歴代の合衆国大統領の中でもっとも背が高い。

あの髭は大統領になった後に生やしたのだそうです。

任期中に暗殺された初めての大統領でもありました。

 エイブラハム・リンカーンは1809年2月12日、ケンタッキー州ハーディン郡で

トーマス・リンカーンとナンシー・ハンクス夫妻の息子として生まれました。

1831年には、ニュー・セーレムからニュー・オーリンズまで、ミシシッピ川を下り

品物を運搬する仕事をしていました。

1832年に起こった、イリノイ州とネイティヴ・アメリカンのソーク族との間の戦い、

ブラックホークの戦いに義勇兵として参加します。

1834年、ホィッグ・民主党の連立候補としてイリノイ州下院議員に初当選し、

1850年代中頃まで、イリノイ州で弁護士として活躍します。

(2007年2月に民主党のバラク・オバマ氏は、尊敬するリンカーンにあやかってここで立候補宣言をしました。州の車のナンバープレートには「LAND OF LINCOLON」(リンカーンの地)の文字が入っています。リンカーンの生誕の地はケンタッキー州ですが、その生涯のうち25年をここイリノイ州で過ごし、住んでいた家、働いていた法律事務所、大統領当選後ワシントンDCへ旅立っていった鉄道駅舎、更には彼のお墓もあります。リンカーンの家はリンカーン歴史地区のほぼ中央にあり、家の中は当時のままでありくまなく見ることが出来るそうです。この家は、リンカーンが結婚後に買い、子どもが増える度に平屋から二階建てに増改築され、内部は質素で部屋数が多く廊下や階段などは狭い家です。夫妻は4人の息子がいましたが、3人は次々亡くなり成人したのは、長男のロバートだけでした。その後、子孫は途絶えてしまっています。周りは、歴史的景観保存地区で、現在もリンカーンが住んでいた当時の街並みがそのまま保存されています。但し、『リンカーン大統領博物館』は、中にホワイトハウスを再現しリンカーンの偉業を学べる最新技術を駆使し豪華なもの…と福山忠彦氏はシカゴから南へ200マイルの「スプリングフィールド」紀行文に書いてくださり、私にメールしてくださった。)

1860年の大統領選挙で当選し、11月6日に第16代アメリカ合衆国大統領に

選出されます。

1860年12月に、サウスカロライナ州が連邦からの脱退を宣言し、

1861年2月までにミシシッピ州フロリダ州アラバマ州ジョージア州

               ルイジアナ州テキサス州も連邦からの脱退を宣言します。

1861年2月4日には7州で参加したアメリカ連合国を設立。

ジェファーソン・デイヴィスが暫定大統領に指名されます。

1961年3月4日にリンカーンが大統領に就任し、

    4月12日に南軍が連邦のサムター要塞を砲撃して南北戦争開始。

1961年5月までにバージニア州アーカンソー州テネシー州ノースカロライナ州

連合国に合流。

ただし奴隷州のデラウェア州ケンタッキー州メリーランド州ミズーリ州

それにバージニア州の西部(後のウェストバージニア州)は合衆国に残った。

1862年9月、エイブラハム・リンカーンは

南部連合が支配する地域の奴隷たちの解放を命じた宣言

「奴隷解放宣言(Emancipation Proclamation)」を出す。

それは、奴隷制の廃止と連邦での市民権の確立に関する

アメリカ合衆国憲法第13条および14条の修正条項制定の推進力となった。

1863年11月19日、ペンシルバニア州ゲティスバーグにある

国立戦没者墓地の奉献式で、リンカーンが行った演説は、

ゲティスバーグ演説として有名です。

THE GETTYSBURG ADDRESS

Fourscore and seven years ago our fathers brought forth on this continent a new nation, conceived in liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal.
 Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation, or any nation so conceived and so dedicated, can long endure.
We are met on a great battlefield of that war.
We have come to dedicate a portion of that field as a final resting-place for those who here gave their lives that this nation might live.
It is altogether fitting and proper that we should do this.
 But, in a larger sense, we cannot dedicate…we cannot consecrate…we cannot hallow…this ground.
The brave men, living and dead, who struggled here, have consecrated it far above our poor power to add or detract.
The world will little note nor long remember what we say here, but it can never forget what they did here.
It is for us, the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced.
It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us…that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion; that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain; that this nation, under God, shall have a new birth of freedom; and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
November 19, 1863

ゲティスバーグ演説

80と7年前、私たちの父祖は、この大陸に新たなる国家を打ち立てました。自由を原点として懐胎され、人はみな平等であるとの命題に捧げられた国家です。
今私たちは、たいへんな内戦の渦中にあります。その国家が、あるいはそのような原点をもって懐胎され、そのような命題に捧げられた国家一般が、長らえることができるかどうかが試されているのです。
私たちはその戦争の激戦地に集っています。その国家が生き長らえるためにこの地で命をなげうった人々の最後の安息の地として、その戦場の一角を捧げるために集まりました。それは私たちにとって、全くもってふさわしく、また理にかなった行ないであります。
しかし、より大きな意味では、私たちがこの土地を捧げることはできません。この土地を聖別したり、神に捧げたりすることはできません。この地で奮闘した勇敢な人々こそが、生きている方々も戦死した方々も含め、すでにこの地を聖別しているのです。
それに付け加えたり、差し引いたりすることは私たちの貧弱な力の及ぶところではないのです。私たちがここで話すことは世界の耳目を引くこともなく、やがて忘れ去られることでしょう。しかし、彼らがこの地でなしたことは、永遠に世界の記憶に留められるのです。この地で戦った人々がこれまで気高くも進めてきた未完の仕事を完遂するために、私たち生きている者は、むしろ自らの身を捧げるべきなのです。
私たちの前には大いなる責務が残されています。名誉ある戦死者たちが最後まで完全に身を捧げた大義のために、私たちも一層の献身をもってあたること。これらの戦死者たちの死を無駄にしないと高らかに決意すること。神の導きのもと、この国に自由の新たなる誕生をもたらすこと。そして、人民の、人民による、人民のための政府をこの地上から絶やさないことこそが、私たちが身を捧げるべき大いなる責務なのです。1863年11月19日  

 (友清理士 訳)

(短く、とても凝縮されていますが、パワフルな演説で、声に出して読んでみると、韻を踏んでいるところがとても気分が良いです。この上なくシャイで赤面恐怖症気味だった大学1年生の私が、初めての暗誦大会に出て、恥ずかしがり屋の私ではなくなってきはじめたそのきっかけの演説文でした。その時代背景を考えると、画期的な短くてインパクトのある言葉の力に改めて感心させられます。)

1864年3月、ユリシーズ・シンプソン・グラント(Ulysses Simpson Grant)、

後の第18代アメリカ合衆国大統領が北軍総司令官に就任。

戦争が長期化し、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が

優勢になり、1864年9月にはアトランタが陥落。

1865年4月3日には南部の首都リッチモンドが陥落。

9日には南部連合の軍司令官、

ロバート・エドワード・リー(Robert Edward Lee)12日)が降伏し、

南北戦争は事実上終了します。

1865年4月14日フォード劇場で、妻のメアリー・トッド他と

「われらのアメリカのいとこ(Our American Cousin)」の観劇中、

北軍のメリーランド州出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブース((John Wilkes Booth)に

1.2mの至近距離からデリンジャー拳銃で後頭部左耳後5cmを1発撃たれ、

致命傷を負った大統領は通りの向かいの、ウィリアム・ピーターソン

(William Petersen)宅に運ばれ、1865年4月15日午前7時21分に亡くなりました。

さて、朝日新聞『天声人語』の最初に西洋の賢人が、手紙の書き出しに

書いた以下の文章が紹介されています。

「今日は急いでいるので長い手紙になってすみません」

また、米国の28代大統領ウィルソンが言った言葉は、

「1時間の話なら今すぐ始められるが、10分の話は準備に1週間かかる」です。

それで有名なのが、同じ『天声人語』に紹介された上記のリンカーンの

ゲティズバーグでの演説です。

わずか10の文で構成された272語・3分間の

「人民の、人民による、人民の為の政治

=The Government of the people, by the people, for the people」です。

この文は、リンカーンが考えたものではなく、

1380年にイギリスで出版された旧約聖書にジョン・ウィクリフが

序文として書き込んだ文章であり、牧師のセオドア・パーカーが

著書で紹介したのを引用したものですが、演説全体は、

まさに自分が目指すべき政治を、簡潔に、言葉をこまかく吟味したであろう

ことに疑いはありません。

一人一人が献身すべきことと、その高き理念が明確に述べられています。

しかし、当時は、あまり評判は良くなかったようです。

リンカーンの演説の前に エドワード・エベットは1時間20分にわたる

大演説をし、並みいる将兵に深い感銘を与えました。

そのあと、リンカーンが立ち上がって 祈りをこめるような調子で

3分ほど演説をしましたが、それは沈痛で、重々しく、聞きとりにくいものでした。

エベレット自身も、後日、リンカーンヘの手紙のなかで、

「あの場における小生の2時間の演説が、閣下の2分間の演説の

要諦に迫るものであったと自負できるなら、まことに光栄です」

と、謙虚につづっています。

エベレットは、アメリカ随一の雄弁家であったが故に、素直に、

リンカーンのスピーチのすばらしさを認めたのでしょう。

そのほかにも、彼は様々な名言を残しています。

人の話す言葉には、その人の人格が込められ、その人の思想が伺えます。

それを人にいかに簡潔にわかりやすく伝えることができるのか、また、

人からそれをいかに正しく受け止め学んで理解を深めていくかが、課題です。

リンカーンが残した言葉を以下にご紹介します。特に有名なのは

「40歳になったら人は自分の顔に責任を持たねばならない」

というものがあります。

「顔」は、ある程度の年齢までは、生まれつきです。

しかし、人は、年齢を重ねるに連れて、

喜怒哀楽を次第にその人の顔に刻み、暗い表情や明朗快活な表情、

そこから醸し出される雰囲気、人格、心を皺(しわ)に刻みます。

特に40歳を過ぎるころから経験の重みや、受容する気持ちや、

自分に対する確信などが顔に現われてくるのです。

そして、ただ顔にそういうことが現れてくるということだけでなく、

それに「責任」を持つべきだということも言っています。

特に子どもは、その人の心持ちを、直感的に感じとるようです。

もっとも、最近はお隣の韓国では「整形手術をする」人が増えて

女優男優をはじめとして、政治家も大統領も一般人も…ということだそうです。

「身体髪膚これを父母に受く・・・敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」と昔の人は

叩き込まれていました。隔世の感がありますね。


さて、次のリンカーンの言葉は

「木を切り倒すのに6時間もらえるなら、

私は最初の4時間を斧を研ぐことに費やしたい。」

これは、斧を丹念に研ぐと、切れ味が良くなり、切り口がきれいになり、

時間短縮にもなるということです。

目前だけの目的を見て、早くそれを達成しようとするのではなく、

本来の目的を達成するためには、どんな準備が必要であるか、

どんな仕上がりを求めているのか…と見通しを立てることが重要と示唆しています。


生き方についてもいくつか示唆を含んだ言葉があります。

「あなたが転んだ事に興味はない。あなたが立ち上がる事に興味がある。」

「大抵の人は自分が幸福になろうと決心した程度だけ幸福である。」(幸福の度合いは自分がどれだけ幸福になりたいかで決まるのだ)

「今日できることを 明日に残すな」

リンカーンの人生は、何度も転んだことでしょう。大きな夢ももったことでしょう。

自分に課せられた使命を全うしようと努力を重ねたに違いありません。

それは、ある人がリンカーンに向けて

「あれが大統領か。実に平凡な風采だな。」

といった言葉に対して返した言葉に現われています。

「その通りだよ、君。神さまは平凡な人が好きなのだ。

だから平凡な人を、たくさん、つくられたのだ」

 これは、自分の使命を確信している人の答えですね。
 

さて、朝日出版社から出版されたCD付き「オバマ演説集」は、

昨年11月20日の発売初日に初版2万部が完売し、

現在 早くも18版になり、40万部発行です。

新大統領就任後もオバマ氏は、数々の名言を残すかもしれない。

「難しいことを難しく言うのは簡単だが、難しいことをやさしく言うのは難しい。」

大学の先生のお話は往々にしてこう感じさせられますね。

幼稚園児にもよくわかるやさしい言葉づかい、若い保育者にもわかりやすいシンプルな短い言葉で、しかも的確に確信を突いた表現をしなくては…と、改めて痛切に思わせていただきました。

子どもたちの心を育てる任務を帯びた仕事で「人の生き方、人の考え方を問う内容」を、いかにやさしく短い言葉で語るかは、特に幼稚園の先生にとっては、研究課題だと思っています。

様々な場面で突然スピーチを求められますが、リンカーンやオバマに学んで、

合わせて、今後の 新大統領のご活躍を 心から念じたいと思います。 


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