nonnon日記
北海道神宮に隣接する円山公園の北入口傍の林の中に、
静かに建っている上の像は初代道庁長官の岩村通俊さん。
四国は土佐藩、今の高知県の出身。函館出張所と札幌本府の両方で、
島さんの後任、判官を務めた。
やはりこの人も情熱を傾けて都市開発、開拓を進めたが、財政破綻。
その時上司だった黒田清隆さん(この18年後に第2代総理大臣となり、
大日本帝国憲法を発布)と対立、で一旦、免職になっている。
その後、新政府の要職を務めた後、明治19年、北海道庁が創設され、
その初代長官となった。札幌のみならず、旭川の開発にも尽力したそう
である。(広大な原野開発の一大事業に、多くの人の苦労、苦難のリレー
があったお陰で、今私達は、美しい街で、ヌクヌクと暮らせている。)
岩村さんは、官僚として、政治手腕に優れていた人だそうで、戊辰戦争、
後の西南戦争、自由民権運動を鎮静して、新政府の要職を歴任。
山縣内閣の農商務大臣まで勤めている。
(明治維新は、今さらながら、疾風怒涛のクーデターだったのだなァ、
と思います。勝った側の薩長土肥藩(鹿児島、山口、高知、佐賀)も
その後の舵取りに疾風怒涛。危険で、エネルギッシュな時代を何とか
破滅に至らず、植民地にもされずに、日本は乗り越えたものですよね。
150年前と言っても、100歳の人もいるわけですから、さして昔ではない。
この札幌開発を担った人達のエネルギーをもってすれば、
何でも、乗り越えられないものはない・・・かも知れません。)
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さて佐賀の不満士族説得に赴く島さんであるが、その佐賀に向かう同じ
船に、何と佐賀県令(今の県知事?)として同乗したのが、上の銅像、
岩村通俊さんの3兄弟の末弟、岩村高俊さん。(長男が通俊さんで、
3男が高俊さん。島さんより23歳も年下で血気盛んな青年だった?
この時、島さんは40代後半、高俊さんは20代半ばだっただろうか。)
船の中で、高俊さんは、佐賀県人を声高に罵ったそうで、それを聞き
咎めた島さんと、船の中で掴み合いの喧嘩になったそうである。
島さんとしては、大切な故郷の人々を、守らねば、という思いに
駆られたのかも知れない。
(私は、歴女、歴婆ではないので、詳しい知識はサラサラないけれども、
普段、何気なく散歩の途中に目にしていた銅像が、ちょっと、ネットで
調べてみれば、意外な関連が浮かび上がってきて、驚いた。)
島さんはその後、故郷佐賀で、新政府に反旗を掲げ、憂国党の党首となり、
「佐賀の乱」の首謀者として、新政府軍(岩村高俊さん側)に捕まり、
江藤新平さんと共に明治7年4月、逆賊として処刑された!
(この時、侍従を勤めた島さんを助けようと、明治天皇が特赦を出そう
としたそうだが、反対勢力があって助けられなかったそうである。
島さんは、原野だった札幌を「日本一の都市に」と情熱を傾けて切り拓き、
原生林の丘に神社を建てたー日々から4年後には亡くなったのである。
当時、一緒に汗水たらして開拓事業を行い、島さんを慕う札幌の人々は、
その悲報を受けて、どんなに驚き、悲しんだことだろう。
その「大きな悲しみ」のあかし、「鎮魂」のあかし、が同じく
北海道神宮の境内にあったことを、私はごくごく最近、知ったのだ!
。