あれはまだ、みのさんが文化放送のアナウンサー時代だったと記憶している。
1975年頃、すでに放送メディアの中では「みのもんたあり!」と知られた存在だった。
当時ボクは廣済堂出版の月刊誌「マネーライフ(隔週誌の「週刊時代」だったかもしれない)」の編集者で、みのさんを取材することになった。
ボクは、すでに「みのもんたあり」といわれている方でもあり、かなりの年配かと思っていたのだが、後で知ったことだが、実はたった5つしか違わなかった。
そして本当に面白い取材になり、取材の延長で銀座に流れた。みのさんの行きつけのクラブに案内され、ご馳走になったのだが、サービス精神旺盛で、かつ豪快。それなのに一軒の店にいる時間の短いこと! 一杯呑んだらあっという間に次の店へと案内され、結局3件ほどのハシゴにお付き合いした。
その時思った。
「この人は、大変な人になるだろう」と。
その根拠は、フットワークの軽さ、笑顔、そして、話の切り上げ方のうまさ。
あれから30年以上が経つ。みのさんは日本で最も成功したアナウンサーの一人になっている。
今日、そのみのさんの朝の情報番組「朝ズバッ!」から、S堂経由で取材の申し込みがあったという。
残念ながら、そのことをボクが知るのは夜になってからで、お受けできなかった。
もし次の機会があれば、今日の分も籠めて話をさせてもらおう。
1975年頃、すでに放送メディアの中では「みのもんたあり!」と知られた存在だった。
当時ボクは廣済堂出版の月刊誌「マネーライフ(隔週誌の「週刊時代」だったかもしれない)」の編集者で、みのさんを取材することになった。
ボクは、すでに「みのもんたあり」といわれている方でもあり、かなりの年配かと思っていたのだが、後で知ったことだが、実はたった5つしか違わなかった。
そして本当に面白い取材になり、取材の延長で銀座に流れた。みのさんの行きつけのクラブに案内され、ご馳走になったのだが、サービス精神旺盛で、かつ豪快。それなのに一軒の店にいる時間の短いこと! 一杯呑んだらあっという間に次の店へと案内され、結局3件ほどのハシゴにお付き合いした。
その時思った。
「この人は、大変な人になるだろう」と。
その根拠は、フットワークの軽さ、笑顔、そして、話の切り上げ方のうまさ。
あれから30年以上が経つ。みのさんは日本で最も成功したアナウンサーの一人になっている。
今日、そのみのさんの朝の情報番組「朝ズバッ!」から、S堂経由で取材の申し込みがあったという。
残念ながら、そのことをボクが知るのは夜になってからで、お受けできなかった。
もし次の機会があれば、今日の分も籠めて話をさせてもらおう。