「~しなければならない」という言葉は、無条件の服従に繋がる。
無条件の服従とは、信ずることの強要を許すこと。信ずることを強要されることなど、誰も望まないし自分はそんな強要は跳ね返せると、ほとんどの人が思っている。
だが、たった一つ。自分が人生の勝者になるためには、そのことだけは「しなければいけない」と言われると、人はそうしてみようと思う。
そして一つ「しなければならない」ことをすれば、二つも三つも同じことになっていく。
例えば占いにしても、方位が、日時が、名前がと、様々な制約を受けるようになる。この制約を受け入れるのも「~しなければならない」ことをしているのと同じ。
そしてもう一つ。「~しなければいけない」ことをやって失敗したとしても、それは自分の努力が足りなかったからだと、ついでに思わされる。
なぜとなれば、そうすることでうまくいった人々がたくさんいるから、いやたくさんいるとということになっているから。次はもっと頑張ろう、と思わされる。
「~しなければならない」ことに端を発するスパイラルの完成、それも多くの場合は抜け出すことの困難な、負のスパイラルの完成だ。
これが似非宗教の「呪縛」だ。
そして似非とは言わないが、世界宗教にも同じように「呪縛」が存在する。
(続く)
無条件の服従とは、信ずることの強要を許すこと。信ずることを強要されることなど、誰も望まないし自分はそんな強要は跳ね返せると、ほとんどの人が思っている。
だが、たった一つ。自分が人生の勝者になるためには、そのことだけは「しなければいけない」と言われると、人はそうしてみようと思う。
そして一つ「しなければならない」ことをすれば、二つも三つも同じことになっていく。
例えば占いにしても、方位が、日時が、名前がと、様々な制約を受けるようになる。この制約を受け入れるのも「~しなければならない」ことをしているのと同じ。
そしてもう一つ。「~しなければいけない」ことをやって失敗したとしても、それは自分の努力が足りなかったからだと、ついでに思わされる。
なぜとなれば、そうすることでうまくいった人々がたくさんいるから、いやたくさんいるとということになっているから。次はもっと頑張ろう、と思わされる。
「~しなければならない」ことに端を発するスパイラルの完成、それも多くの場合は抜け出すことの困難な、負のスパイラルの完成だ。
これが似非宗教の「呪縛」だ。
そして似非とは言わないが、世界宗教にも同じように「呪縛」が存在する。
(続く)