普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

信仰の根幹③

2014-07-17 23:57:41 | ちょっと宗教<的>な
「~しなければならない」という言葉は、無条件の服従に繋がる。

無条件の服従とは、信ずることの強要を許すこと。信ずることを強要されることなど、誰も望まないし自分はそんな強要は跳ね返せると、ほとんどの人が思っている。

だが、たった一つ。自分が人生の勝者になるためには、そのことだけは「しなければいけない」と言われると、人はそうしてみようと思う。

そして一つ「しなければならない」ことをすれば、二つも三つも同じことになっていく。

例えば占いにしても、方位が、日時が、名前がと、様々な制約を受けるようになる。この制約を受け入れるのも「~しなければならない」ことをしているのと同じ。

そしてもう一つ。「~しなければいけない」ことをやって失敗したとしても、それは自分の努力が足りなかったからだと、ついでに思わされる。

なぜとなれば、そうすることでうまくいった人々がたくさんいるから、いやたくさんいるとということになっているから。次はもっと頑張ろう、と思わされる。

「~しなければならない」ことに端を発するスパイラルの完成、それも多くの場合は抜け出すことの困難な、負のスパイラルの完成だ。

これが似非宗教の「呪縛」だ。

そして似非とは言わないが、世界宗教にも同じように「呪縛」が存在する。

(続く)

信仰の根幹②

2014-07-17 00:08:40 | ちょっと宗教<的>な
一時、マインドコントロールという言葉を、宗教批判の鋭利な刃としてマスコミが多用していた。今でもそうかもしれない。

だが、マインドコントロールなしには、宗教どころか、政治も、経済だって本当は動かない。例えば「アベノミクス」だ。この言葉がなかったら、民主党政権から自民党主導の政治状況になって以降の経済のありようは、まったく別物になっていたろう。

どういうことかと言えば、善し悪しは別にするとして、「アベノミクス」という言葉のもつ、ぼんやりとしてはいるけれどある種の求心力に、国民は無批判にコントロールを委ねたところがある。なんとかなるんじゃないか? という思いを抱かされた。これはまさしくマインドコントロールだ。少し遡れば田中角栄の「日本列島改造論」も同じような力をもった言葉だった。

なぜ、言葉に「マインドコントロール」の力が備わるのか? 種々の意見はあろうが、ボクはその理由が「恐怖」にあるように思う。

このままいくと「ヤバい」んじゃないかという、潜在的な恐怖から逃れる方法論として、その言葉に付き従う。

「マインドコントロール」するための最高のモチーフは、「恐怖」なのだと思う。

恐怖から逃れる道筋、恐怖に立ち向かう勇気、恐怖をあるがままに受け入れる平常心……恐怖をどうとらえるかは、個人個人の資質によるところが大きいだろうが、恐怖をコントロールできれば、人々の生活の大半は結構楽しいものになるだろう。

だから、その恐怖心を克己、コントロールするための方法論として、「マインドコントロール」は機能する。

多くのシチュエーションで「マインドコントロール」的手法は多用されるが、それを最も効果的に使うのは、多くの似非宗教家だ。信者のコントロールのために使う。曰く「○○しないと悪いことが起こる」「毎日○○しなければならない」「○○への執着を捨てなければいけない」云々……悪しきマインドコントロールだ。

その最も効果的かつ強力な武器になる言葉が「~しなければならない」。まるで義務のように、人の生活の根幹からコントロールできる言葉。

(続く)