世界三大宗教と呼ばれる、イスラム教、キリスト教、仏教にも、「呪縛」は存在する。
それも強力な「戒律=呪縛」、と同時に「脅迫」である。
一番わかりやすいのは、キリスト教の戒律「十戒」、「原罪」、そして「神」に対する「悪魔」の存在であり「二律背反」という教義、そして「地獄」という世界観。宗教なんだからあって当然と思われることなのだが、おかしな要素だ。
本当であれば、この「呪縛」、「脅迫」こそ、真実の現代宗教にはあり得ようもない要素だと、ボクは考えている。
なぜなら、宗教の現代的意味は「人々をいかに幸せに導くか」という一点にある。そういう意味では人々が幸せに暮らせる社会システム=「物」の整備と言った役割を担う政治的な要素と、目的は一応同じであると考える。
宗教の役割は当然、一方の「心」を担う。
だからこそ、「呪縛」や「脅迫」などのネガティブな要素は、入り込む余地もないのだ。
ただ、連綿と継承されてきた宗教の役割は、時代相と共に変化してきてはいるが、実のところ支配のための道具であったと言っても過言ではない。政治と不可分のモノとなったり、時として政治を遙に凌駕する支配機構として働いた時さえあった。
だから、巧妙に「呪縛」も「脅迫」も、すぐに其れとは分からぬよう教義としてカモフラージュされていた。
仏教にだって「五戒」があり「地獄」もあるが、キリスト教のようなあからさまな要素はない。
だが、程度の差こそあれ人々は宗教の「呪縛」と「脅迫」によって、支配され続けてきたのだ。
恐ろしい人間の歴史である。
いまでさえ、人々はこの「呪縛」と「脅迫」に服従するように、異なる宗教を奉じながら殺しあう。
殺しあわないまでも、罵り合うことくらいはする。
「~しなければいけない」という言葉のもつ負のファクターの面目躍如だ。
いい加減に、今どきの「マインドコントロール」という言葉と「呪縛」が同じ意味で、新興宗教も世界三大宗教も、身ぐるみはがせば同じだと気付いていいのではないか?
「呪縛」と「脅迫」を根幹に据える宗教は、世界三大宗教といえども、今では似非なのである。
断っておくが、ボクは無信論者ではない。仏教徒だ。だからこそ余計に、「呪縛」、「脅迫」への嫌悪が強い。それだけのことだ。
<完(一応)>
それも強力な「戒律=呪縛」、と同時に「脅迫」である。
一番わかりやすいのは、キリスト教の戒律「十戒」、「原罪」、そして「神」に対する「悪魔」の存在であり「二律背反」という教義、そして「地獄」という世界観。宗教なんだからあって当然と思われることなのだが、おかしな要素だ。
本当であれば、この「呪縛」、「脅迫」こそ、真実の現代宗教にはあり得ようもない要素だと、ボクは考えている。
なぜなら、宗教の現代的意味は「人々をいかに幸せに導くか」という一点にある。そういう意味では人々が幸せに暮らせる社会システム=「物」の整備と言った役割を担う政治的な要素と、目的は一応同じであると考える。
宗教の役割は当然、一方の「心」を担う。
だからこそ、「呪縛」や「脅迫」などのネガティブな要素は、入り込む余地もないのだ。
ただ、連綿と継承されてきた宗教の役割は、時代相と共に変化してきてはいるが、実のところ支配のための道具であったと言っても過言ではない。政治と不可分のモノとなったり、時として政治を遙に凌駕する支配機構として働いた時さえあった。
だから、巧妙に「呪縛」も「脅迫」も、すぐに其れとは分からぬよう教義としてカモフラージュされていた。
仏教にだって「五戒」があり「地獄」もあるが、キリスト教のようなあからさまな要素はない。
だが、程度の差こそあれ人々は宗教の「呪縛」と「脅迫」によって、支配され続けてきたのだ。
恐ろしい人間の歴史である。
いまでさえ、人々はこの「呪縛」と「脅迫」に服従するように、異なる宗教を奉じながら殺しあう。
殺しあわないまでも、罵り合うことくらいはする。
「~しなければいけない」という言葉のもつ負のファクターの面目躍如だ。
いい加減に、今どきの「マインドコントロール」という言葉と「呪縛」が同じ意味で、新興宗教も世界三大宗教も、身ぐるみはがせば同じだと気付いていいのではないか?
「呪縛」と「脅迫」を根幹に据える宗教は、世界三大宗教といえども、今では似非なのである。
断っておくが、ボクは無信論者ではない。仏教徒だ。だからこそ余計に、「呪縛」、「脅迫」への嫌悪が強い。それだけのことだ。
<完(一応)>