10月4日(火)、お昼すぎに、大津(大津市大谷町)の親戚を訪問す
る(前回のブログをご参照→こちら)。
我が家のファミリーヒストリーを訪ねて、である。はたして・・・・・・
10:27 JR大阪駅 8番線へ。
10:43 大阪より10時45分発「新快速」に乗る。
停車駅は、新大阪、高槻、京都、山科、大津・・・・・・の順である。山科
で下車予定。
大阪より大きな声で独り言を言うおじさんが乗車し、周囲はビクビク。
その人は新大阪で降りていき、ホッとする。
11:07 進行方向右側 サントリーの京都ビール工場
11:21 山科駅着
11:22 JR山科駅改札口 ここで京阪京津線に乗り換える。
11:23 JR山科駅
11:23 山科・醍醐の名所と史跡 一日では回り切れない。
11:24 京阪山科駅
11:25 右側のプラットホームへ(浜大津・石山寺・坂本方面)、目指
すは3つ目の大谷駅。
11:29 KPRESS10月号
・黄金のファラオと大ピラミッド展(~12/25)京都文化博物館
・生誕300年若冲の京都KYOTOの若冲(~12/4)京都市美術館
・ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち(~1/15)国立国際美術館
11:30 来た来た! 京阪京津線 浜大津行
11:30 車内
11:31 京津線から石山坂本線へ繋がる。
11:37 大谷駅着
11:38 無人駅?
11:39 駅前
大谷町
かつてこのあたりが、深い谷間にはさまれていたことから名付けられ
た町名です。東海道沿いのこの付近では、江戸時代、大津絵や針な
ど土産物が売られていましたが、とくに大津算盤(そろばん)は、近く
の旧今一里町(現大谷町)、片岡庄兵衛の創始といわれています。
11:40 うなぎの大谷茶屋
11:40
11:40
「これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関」(蝉丸)
11:41 歩道橋より 東海道、国道1号線 大津方面
11:42 大谷町自治会館?
11:43 大谷駅と東海道、国道1号線
11:44 東海道、国道1号線 京都方面
11:45 おおつ健康フェスティバル
ヒロシの「大津で語るとです」
11:46 大谷町 京阪大谷駅前
11:46 東海道の旧道 江戸時代は大変な賑わいだったという。
11:47 上の写真の家 「元祖走井餅本家」 ご参考→こちら。
11:47 「昭和32年10月1日」(?)
11:47 まことに歴史を感じさせる東海道の旧道
11:48 右 京三条(?)
11:48 左 ・・・・・・
11:48 蝉丸神社 あの蝉丸である。
11:48
11:49
当社は天慶9年(946年)蝉丸を主神として祀られております。
蝉丸は盲目の琵琶法師よばれ音曲芸道祖神として平安末期の芸能
に携わる人々に崇敬され、当宮の免許により興業したものです。
その後、万治3年(1660年)現在の社が建立され、街道の守護神猿
田彦命と豊玉姫命を合祀してお祀りしてあります。
これやこの ゆくもかへるも わかれては
しるもしらぬも あふさかのせき 蝉丸
11:50 日清戦争戦死者の紀念碑のようだ。
11:50 明治31年4月上旬とある。今から118年前だ。
11:51 東海道旧道にある「逢坂山 かねよ」→こちら。
11:53
東海道五十三次 大津宿 走井茶店
大津名物「走井餅」茶店 店の前に「走り井」がコンコンと水が湧き出
ている。牛車は、のんびりと京都に向かう。 うなぎのかねよ
11:54 左の石柱は
此の附近(逢坂関跡)
大津絵販売之地 浜大津 ハン六 二代目六兵衞
平成25年(巳歳)正月建之
信号手前 「二輪車も感知器の下○へ」
11:55 サイクリングのおじ(い)さんが休憩中(後述)
11:55
11:55
11:56 逢坂の関
11:57 逢坂常夜燈と逢坂山関址
11:57 東海道・国道1号線 三叉路右方向が旧道
11:58 車石 牛車の跡 ポンペイみたい?
先ほどのサイクリングのおじさんに10分ほど話しかけられた。
「どちらから?」
「横浜から、大阪を回ってきました」(私)
「サイクリングは健康のためによろしいよ~」
「おいくつですか?」
「(昭和)19年生れの71」
「お元気ですね~」
「ウン、私らの周りで友達がボチボチと亡くなりだして、健康のために
何かやらなとあかん思うて。歩くのは寒いとあかんしい、ゲートボール
や言うたかて人間関係がややこしい。
その点、サイクリングは自転車1台、一人でどこでも行けますやろ。
有酸素運動、琵琶湖大橋ぐる~っと回って。お金かて何百円かあれ
ば、おにぎり買(こ)うて。折り畳み式なら電車でも持ち運べるしい」
(話し出したら止まらない)
「ホント、そうですね~」
「もし買うんやったら、サイクリングの協会にでも行って、一度だけ、
深う頭下げて、頭下げるのはタダやっさかい、どんな自転車がよろし
いか言うて、頭下げなはれ。ナスビやキウリと違(ちご)て、また買お
いうわけに行かしまへんさかいな~」
「ホントですね。ごめんなさい、これから親戚と約束の時間がありま
して」
「蝉丸神社、寄っていかなはれ。よろしいよ~」
「有難うございますぅ~。自転車、記念に撮らしてもろてええ?」(関
西弁がうつってしまった[笑])。
スマホを駆使する、話し好きの親切なおじさんであった。
12:07 撮らせてもらった、ご自慢の自転車
12:07
12:09
右から
夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言(百人一首)
名にし負はば 逢坂山のさねかずら
人に知られで くるよしもがな 三条右大臣(同上)
蝉丸の歌
12:12 駅前へ戻り、ここから大谷町の団地へ
12:13 お邪魔するのは何十年ぶりかしらん。ほとんど記憶がない。
12:15 逢坂山とんねる跡
12:15
12:15 大谷団地自治会
12:17
12:18
12:19
12:20 この近くのはずだが・・・・・・
伯父が昭和44(1969)年にこの地に家を建てたが、お邪魔してみ
るとその長男(私の父方の従兄弟)が立派な家に建て替えていた。
従兄弟夫婦から盛大な歓迎を受けた(帰りにお土産までいただいた)。
はたして大津にお邪魔するのは、何年、何十年ぶりかしらん。
伯父の家族は、うちが四日市時代、名古屋に住んでおり、時々遊び
に行ったので、こうして会うとその時代に戻ってしまう。
ご無沙汰している挨拶もそこそこに「ご先祖様」の話を聞かせてもら
う。私の従兄弟がペーパーにまとめ、用意してくれていた。
従兄弟は「12代目」に当たるようだ。9代目恒二が明治35年4月に
富山県高岡市の教恩寺(浄土真宗)にお墓を建てる。当時のお墓の
写真も見せてもらった。
11代目の伯父さん(私の父の兄)までそのお墓に埋葬、納骨された
(昭和53年)が、あまりにも遠いので、お墓を昭和55年11月に比叡
山延暦寺の墓地に移したという。
10代目二吉(私の祖父、昭和27年死去)は、中国語がペラペラで、
孫文の中国革命(辛亥革命)を応援して走り回っていた、と父母か
ら聞いたことがあった(孫文には日本の資金援助があったようだ)。
はたして、Googleで検索すると、『中華民國革命秘笈』という本に、
中国の「武昌には大原武慶が二吉を帯同して」という趣旨のことが
書かれており、これが私の祖父(伯父や父の父親)ではないかしら
ん、というところまでこぎつけた。「武昌起義」?→こちら。
いつか、国会図書館に行って調べてみよう。
ちなみに9代目以前、江戸時代は加賀前田藩の儒学者だったよう
だ。--聞いてビックリ!である。
(注)加賀藩は、おおざっぱに言えば、広く、今の石川県、富山県を
領有していた。
14:10 JR大津駅
従兄弟に車で大津駅まで送ってもらった。
14:11 大津駅プラットホーム
14:12
14:23 京都着
14:23 京都では、エスカレーターの左乗り!
14:24 京都駅改札口をいったん出る。
14:31 さすが、外国人の観光客が多い。
14:35 お弁当を買う。早めの夕食だ。
14:38
14:38
14:42 新幹線上りプラットホーム
15:00 15時18分発 のぞみ30号を待つ。
15:16 のぞみ30号
15:18
大阪駅で
「この切符で京都で途中下車できますか?」
「できません。別切符を買ってください」
「(この切符で)京都から乗車できますか?」
「JR発行ではないので旅行会社に訊いてください」
ということだった。
やむなく、山科まではパスモを使い、京都駅でこの切符を自動改札
に入れたら、跳ねられてしまい、改札の駅員に見せたら
「はい、スタンプ押しますね」
と通してくれた。
ちなみに新横浜でも自動改札に跳ねられ、見せたら、何も言わず回
収された。
15:21 栗おこわ弁当
16:43 富士川かしらん。
16:43 富士市付近を通過中。
16:44 黒っぽい富士
16:45 新幹線からの撮影はなかなか難しい。
17:15 新横浜着
17:19 ブルーライン(地下鉄)へ
17:42 あざみ野着
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