この3年ほど、母が残しておいてくれた「原戸籍」を手掛かりに「ファミリー・ヒストリー」を調べた。昨年、かなり「研究」が進んだので、年末にパワーポイントにまとめ、1月1日(月・元日)、わが家に「全員集合」の折、「発表」 . . . 本文を読む
「ファミリーヒストリー」関係については折に触れ、書いてきた。3年ほど前、亡母が残しておいてくれた「原戸籍」により、私の父から恒夫→二吉→恒二→権九郎(高岡出身)と遡ることができ . . . 本文を読む
1月28日(土)、お隣の区に住んでいる妹に卓上カレンダーをポスティングする。叔母さんから「老健施設では使わないので」ともらったものだ。自宅から川和、佐江戸を経由、ゆっくり走って50分ほどかかった。「ファミリーヒストリー」については、今まで折に触れ書いて . . . 本文を読む
4月28日(木)、自由が丘の叔母さんを定例訪問。近現代史上の人物に鮫島武之助(1848-1931)がいる(→こちら&こちら)。薩摩藩出身で勅選貴族院議員、伊藤博文内閣書記官長などを歴任した人だ。麻布笄町151番地に住んでいた記録がある。「伊藤博文の右腕」と呼ばれた人らしい。その人には、 . . . 本文を読む
4月20日(水)、旧麻布永坂のゾルゲ邸跡を見た後、六本木へ回る。六本木は高台であり、そこからは芋洗い坂など下り坂がいくつかある。母や叔母一家は、戦前(戦時中)六本木から「霞坂」を渋谷方向へ下って行った「笄町(こうがいちょう)」に住んでいたという。当日、「街道をゆく」に . . . 本文を読む
先日書いたとおり、私の祖父の時代、本籍地は、「小石川区久堅町81番地」だった。文京区役所訪問の結果、これは新住居表示では、「小石川5-20-2、3、17」、「小石川5-21-3、5、6」に当たるということが分かった。3月27日(日)、大変暖かくなった日(東京の最高気温21.4℃)。 . . . 本文を読む
父方の祖父母については、既に少しく書いた(→こちら)。改めて、母が残しておいてくれた「原戸籍」を整理すると、私の父方の
曽祖父は恒二(1862-1928)祖父は二吉(1980-1952)である。恒二一家の本籍地は、富山県高岡市だったが、大正9(1920)年
に . . . 本文を読む
3月12日(土)、大変暖かい。午前中、前日の上永谷訪問に続いて、ハスラーで、昔住んでいた世田谷の野沢に行ってみた。その後、さらに昔々、私が1歳から7歳まで住んでいた宮坂(みやのさか)を訪問。父は30代初めで持ち家を建てたことを自慢にしていた(金融公庫制度 . . . 本文を読む
2月23日(水・祝)、天皇誕生日。いつもは、木曜日が自由が丘の叔母さん訪問日だが、この週は木曜に「人間ドック」が予定されているため、訪問を一日繰り上げる。叔母さんは、昭和20年(満19歳)、家族と住んでいた麻布笄町(こうがいちょう。今は西麻布という地名だ。笄小学校が . . . 本文を読む
年末の大掃除をしていると、いろいろな物が出てくる。中学一年の時の担任、小川茂樹先生の句集もその一つだ。先生は、担任いただいた昭和38(1963)当時、32~33歳だったと記憶する(教わった先生の年齢を、生徒は覚えているものだ)。入学式では、 . . . 本文を読む
「我等の母校」は、私が卒業した暁学園(→こちら)の学園歌の一節だ。一番は、「海原遠く見はるかす」で始まり、「ああ我等の母校 暁学園」で終わる。学園歌の作詞は石川達三、作曲は橋本國彦だ。
私は、その小学校と中学校を卒業した。中学を . . . 本文を読む
7月21日(水)、今週は一日前倒しで自由が丘の叔母さん宅へ。叔母さんに、家に残る家族写真(下の写真)を確認する。私の祖母、伯母、母、叔母の家族4人だ(男性陣は写っていない)。満洲から帰国後、 . . . 本文を読む
父方の祖父二吉(1880-1952)については、以前、「ファミリー・ヒストリー」の一つとして書いた(→こちら)。二吉は、孫文の支援者として、中国を走り回っていたようだが、養父恒二から「少し腰を落ち着けなさい」と言われ、最終的に外務省の職員に . . . 本文を読む
7月14日(水)、ハスラーを駆って、港南区上永谷から磯子区磯子台へ。上永谷は40年前結婚した当時、3年ほど住んでいた「困窮者用社宅」(--今から思えばすごい名前?)があったところだ。カーナビをセットして、訳も分からず、指示どおりに走っていたら、 . . . 本文を読む
以前、ファミリーヒストリーとして、祖父母のこと、父母のことを少しく書いた。古い写真が見つかったので、自分の子ども時代のことも少し書いておく気になった。私は、昭和25(1950)年、横浜市金沢区の六浦で生まれた。1年ほどして、 . . . 本文を読む