「我等の母校」は、私が卒業した暁学園(→こちら)の学園歌の
一節だ。
一番は、「海原遠く見はるかす」で始まり、「ああ我等の母校
暁学園」で終わる。
学園歌の作詞は石川達三、作曲は橋本國彦だ。
私は、その小学校と中学校を卒業した。中学を卒業したのは、も
う55年前だ。人間的で、明るい学校だった。
今年は、学園創立75周年。私には小学校と中学校の両方から寄付
のお願いが来た。
--当時、中学主事の早川先生が「君たち、早く偉くなって、暁に寄付してくれ
よ」と言っておられたことを思い出す。
小学校にも中学校にもいろいろな、断片的な思い出がある。
中学校では、クラブ活動の「掛け持ち」が許され、私は陸上部と
山岳部に入り、冬場はサッカー部にも所属していた。
顧問は、それぞれ上逵(うえつじ)先生、加藤先生、谷先生だっ
た。
陸上部の仲間二人が、ある時、「なんとなくおもしろくないので、
もうやめる(退部)わ」というので、上逵先生に言いに行く二人
についていった。
「先生、僕ら、もう陸上部をやめたいのですが・・・・・・」
「うん?そうか・・・・・・。よし、分かった」
あまりにもすぐにお許しが出たので、みなビックリ!
結局、二人はやめるのをやめ、その話はなかったことになった。
ちなみに、上逵先生の担当科目は「美術」であった。
ある時、母と市内諏訪町にある中華料理店に入ったら、そこで顧
問の谷先生が食事中。独身の谷先生は飛び切りの美人と一緒だっ
た。先生は私に気づいていたようだが、私は知らないフリをした。
学校に行っても、そのことは誰にも言わなかった。先生がその女
性と結婚されたのか、いまだに知らない(子供は、思ったより大
人であり、つまらないことを覚えているものだ)。
山岳部の顧問の加藤富雄先生は、ウワサによればマナスル登山隊
の「候補」だった。真偽のほどは定かでない。先生は、数学の時
間、黒板に山の絵を描くのが得意だった。中学卒業時、私は、先
生にオネダリして、ノートに山の絵を描いてもらった(→下の写
真)。
75周年の案内2通
50周年の同窓会会報(75周年記念も出るかしらん。)
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