「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

人間と偶像崇拝

2013年11月15日 00時42分43秒 | うつせみ佛教問答
昨今、まわりの死に接しまして、もうやてもたまらずにいやれない状況にいます。

私は、30過ぎにして、龍谷大學の門を叩いた男でございますので、

さらに、文学部佛教学科の出でございますので、あらかた佛教と言うものがどういうものなのか、

「酸いも甘いも」解かっているつもりでございます。

しかるに、ゴータマ・ブッダが、「自分を崇拝することなかれ」と、暗に説いたことも承知です。

ですが、人間というものは弱いもので、すぐに「偶像」にすがりたがるものです。

吾輩もその一人であります。

ゴータマ・ブッダが入滅したのち、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、

地蔵菩薩が衆生を救うとされています。

私は、40年生きてきて、数人の死に立ち会ってきました。

その時に、自分の無力さ、この世の無常さに打ちひしがれてきました。

また、自分の人生を振り返っても、なにかやるせなさを感じてきました。

そういった時にふっと、思うのは「佛」であるのです。

おもわずすがりたくなるのです。

「藁をもつかむおもい」とでもいいましょうか・・・。







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理解途中の浄土思想「さて、『本願念佛』とは?」

2013年11月10日 23時45分14秒 | うつせみ佛教問答
本願念佛の教えを要約すると、

「本願を信じて、念佛申さば、佛になる」としている。

まぁ、平たくいえば「信じるものは救われる」というわけだ。

ただ、名号を唱える行為が必要だ、ということだ。

「南無阿弥陀佛」と。

法然より前の日本佛教は、「修行者や学問を積んだ者」が、

往生する狭義的な佛教だったのだろう。

法然はそれを「無学な人こそ、救われるべき」と考え、

名号のみを唱えるという、ごく簡単な方法を用いて、

「末法の世」に「こころの安寧」をもたらしたのだろう。







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ブッダ曰く、『己を島とせよ・・・』だけど・・・

2013年11月09日 01時02分06秒 | うつせみ佛教問答
ゴータマ・ブッダの残した言葉として、「己を島とし、法を島とせよ。」という言葉が有名です。

つまりは、「他人や偶像を崇拝することなく、自分と法を頼りとせよ。」ということです。

しかし、人間は弱いもので、すぐに仮初めな教祖や偶像に頼りがちです。

なぜなら、その方が楽だからです。

私も自分で自分を律してはいますが、なかなかこれが難しくて困っています。

ですので、ブログで吐いたりしております。スミマセン・・・

「人生は一生修行」とは聞いたことはありますが、まさにその通りでまだまだ修行が足りません。

私は他人様より、ちょいとひどい目に遭っては来ていますが、

そこから「人が生きる何たるか」を摂取していかなければいけません。

法然は、「浄土には、学問が邪魔になる。ただ一心に信心しなさい。」という

趣旨の言葉を言っているが、この文明社会花盛りの世の中では目の前が惑わされがちです。

変な知恵がつくと、「一心」が難しいですね。

ひとつ間違えれば、「狂信的」と言われかねない。

しかしこの時代、しっかりとしたバックボーン(精神的支柱)が無ければ流されていきますね。






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『他人(ひと)の死と向き合う』一年

2013年11月05日 23時13分16秒 | うつせみ佛教問答
去年末から、隣人の死に接している。

自然死、自死・・・

どちらにせよ、死は突然にやって来ました、私にとって。

他人(ひと)の死は周りに少なからず影響を及ぼします。

希死念慮の渦に巻き込まれ、呑みこまれていた私が言うのもなんですが・・・

私が学んでいた佛教では力まず死を自然に迎え入れることが肝心です。

ですので、「自死(自殺)」は、もってのほかです。

佛教には、「執着」という言葉がゴータマ・ブッダのものとして残っています。

「執着してはいけない」ということです。

「生」にも「死」にも。

希死念慮にさいなまれると、「死」に執着してしまいます。

逆に健康だと、「生」に執着してしまいます。

さて、執着しないことに執着しそうな・・・





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理解途中の『歎異抄』、今回のキーワードは、「無礙(むげ)」

2013年11月02日 00時33分30秒 | うつせみ佛教問答
まず、『歎異抄(たんにしょう)』とは、なんぞや?という話だが、

浄土真宗開祖の親鸞(しんらん)の口述を記したものとされている。

これを記した者は諸説あるが、今はそれを問題としない。

今年の初めから、学習を始めたのですが身辺が忙しくなってきたので滞っていました。

で、最近ペースが掴めてきましたので学習を再開しました。



今回取り上げたいのは、「無礙(むげ)」という言葉。

意味は、「なにものにも捉われないこと・妨げのないこと」

段取りを踏んで話をしますと、歎異抄では「宿業」、「業縁」の結果にとらわれことなく、

全てを受け入れて、悠々としてひたすら本願をたのむ、それが他力に生きるということ。


                  ↓

『歎異抄』には、「念仏者は無礙の一道なり。・・・罪悪も業報も感ずることにあたはず」とある。

本願念仏は、いかなるものにも妨げられることのない生き方を保障する。本願を信じることによって、

その報いが、良かろうが、悪かろうが、心を悩ませることがなくなる、ということである。

これが、「無礙の生き方」である。
         ↓
      本願念仏者特有

                  ↓

○まとめ「幸運」であろうが、「不幸」であろうが、ありのままを受け止めるという立脚地

他の宗教にまま見られる根拠の無い「幸福製造機」とは根本的に立場が違うのである。

『歎異抄・第十三章』は、究極的に「宿業」、「業報」の事実を

知るということがいかに大切か説いている。






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