「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

『苦しみから得ることはあるのか?』-<空蝉-現人>の精神世界への誘い

2015年10月13日 21時21分17秒 | うつせみの精神世界への誘い
現代は「楽な方楽な方」に進む人間と、

堪えず自分を厳しいところに追いやる人間と、

大きく『二極化』しているように思う。

さぁ~てねぇ・・・

私から言うと、『大いなる苦』を抜け出た人間というのは

「屈曲した人間」が生み出されるのではないかと思っている。

ただ、「苦しみから抜け出たい、誰かを犠牲にしてでも抜け出したい」と。

「苦しみから抜け出して立派な方がいるじゃないか!!」というかもしれない。

たとえば、比叡山延暦寺の「千日回峰」というのがあるが、

あれはなにか得られるのだろうか?

苦行に苦行を重ねて、体を酷使し体が「幻覚を感じる状態」になっているだけではないか?

もし私の論が正しければ、「苦行」には意味が無いだろう。

ゴータマ・ブッダ(いわゆる「釈尊」)は、

インドの先達達が行っていた「苦行」をやってみたがなにも得られなかったという。



青年ゴータマは、元々王子様だったから「楽ちんな生活」は、

「人間を堕落させる」ことを既に知っていた、と思われる。

そして、城を抜け出して途中「苦行」という『方法』を用いるわけですが、

前述したとおりダメでした。

じゃぁ、なにが良いのか?

と言うことで『苦楽中道』と言う結論になるのですが、

これはしかし、大いに誤解を招く可能性のある言葉です。

「じゃぁ、なにもしなくて良いんだ!」ではないのです。

精神を常に敏として日常の変化からも悟りを得る



例えば、落ち葉の中を歩んでいて踏みしめる「音の違い」から世の中の原理を悟る-

など、「悟り」の材料は日常にゴロゴロと転がっているのでしょう。



私は感じるに「平静」で且つ「敏」この両輪ではないかと思う。

そして思うのは「『悟り』は、持続しないもの」だと思っている。











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