川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

北朝鮮⑥朝鮮総連(上)

2009-04-14 11:14:44 | 韓国・北朝鮮
 私たちが主催した「北朝鮮へのまなざし」を考える連続講座(第14回 05年10月2日)で高英起さんが話された内容の後半部分を紹介します。北朝鮮の独裁体制を支えてきた右足か左足かにあたるのは在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)です。
 今では『朝鮮総連』と題した本も二冊は出ていますが、どの本の著者も自らがその組織に深く関与しながら、自らの責任を問うことのない(?)誠実さに欠ける印象を持ちました。
 高さんは深く関わったわけではありません。その中で育った人です。
 
 自己が育てられてきた歩みを直視し、相対化する目の確かさと誠実さにぼくは深く感動しました。
 
 今はどこにも公開されていないので、長くなりますが紹介することにします。どこに行っても聞けないだろう貴重なお話です。(『木苺』130号所収)



         朝鮮学校・朝鮮総連と私
             高英起(コ・ヨンギ)

■北朝鮮の民主化
 北朝鮮の民主化運動をはじめるきっかけは現RENK代表であり、関西大学の恩師でもある李英和さんとの関わりがきっかけです。李英和さんとは大学入学して間もないころから師事していました。彼が北朝鮮へ留学すると聞いた時「何を好きこのんで、あんな国に留学するのだろう?」と疑問を抱きましたが、逆に考えると李英和さんなら、当時はまったくわからなかった北朝鮮の真の姿を見てきてくれるのではという期待もありました。
 帰国後、李さんは北朝鮮の惨状をあますところなく、僕や周りにいた在日コリアンの学生に訴え北朝鮮の民主化の必要性を訴えました。しかし結成された1993年当時は北朝鮮の惨状など、まったくと言っていいほど知られてなかった。ましてや李さんや僕などが属していた左翼陣営の中では北朝鮮批判は日本の拝外主義やアメリカ帝国主義(!)を利するからとうい理由でタブーとなっていました。しかし北朝鮮の民衆が想像以上の惨状の中で苦しんでいる事に異議を唱えないで人権や民主主義を訴える資格はないという李さんの熱い訴えに突き動かされて、李さんを中心にRENKが結成されることになりました。この時の学生メンバーの中心は僕が所属していた関西大学の朝鮮歴史研究会のメンバーです。
僕を含む数人の在日コリアンの学生は「北朝鮮の民主化」という新鮮な響きに新たな地平を求めて、闘いの中へ身を投じたのです。と言ったら格好いいですが、実際は若気の至りというか(笑)、先に述べた留学生同盟のヌルいやり方の中で、熱いエネルギーのやり場に困っていて学生たちの「いっちょ、やったろか!」というイキオイで参加したというのが、正直な話でしょう。とは言いながらも、「北朝鮮の民主化」を訴える中で経験した朝鮮総連や左翼陣営との軋轢の中でメンバーは次第に自らの意志に確信を持ち始め、結果的に強い結束を産み出しました。

■ 始めてから気がついたことの重大性
 北朝鮮の民主化運動をはじめて僕は何故、この体制の問題性を追及する作業をしてなかったのか?反省しました。もちろん仲間内では北朝鮮の体制批判をしたことはありましたが、公には訴えてこなかった。結果的には、北朝鮮の体制、政府に荷担したことになるんですね。もちろん僕が北朝鮮の体制を擁護しようが金日成や金正日を持ち上げようが、実際の体制維持には何の役にも立ちません。むしろ、当事者からは「オマエなんかに支持されたくない」と断られるのが落ちでしょう。ただ、気持ちの持ちようとして、自分が100%支持はしなかったけれども、反対もしなかったことによって、もしかしたら一人の北朝鮮の民衆というのが、食糧難に陥って、飢餓に陥って死んでいってるんやないかっていうふうに考えると、自分の中で「落とし前はつけなければアカンな」と思いました。RENKを始めた当初は、正直なところ、その程度の軽い気持ちでした。ただ、その後の色々な出来事を通じて北朝鮮の民主化という課題は僕の中で離れられない問題となっていきます。
特に、立ち上げて最も大きな問題だったのは、想定内でしたが、朝鮮総連との衝突です。朝鮮総連にとって、北朝鮮を批判する勢力やグループで一番怖いのが、元総連なんですよ。例えば民団とか、総連以外の韓国人とかが、北朝鮮を批判してたとしても、総連にとっては大してダメージにはならない。ところが北朝鮮に留学経験のある李英和さんや僕みたいに総聯に所属していて内情を知っている人間が、北朝鮮や総連を批判するのは、彼らにとって最もダメージが大きいのです。結成当時のRENKは今もそうですが多くても10人ぐらいの小さい寄り合い所帯です。ところがね、そんな我々に10万人単位の規模の総聯が執拗に破壊工作をしてくるわけです。脅迫、恫喝、嫌がらせ、公私にわたってありとあらゆる手をつかってRENKをつぶそうとしてきました。社会的地位のある李英和さんは、あまり言いませんが想像を絶する嫌がらせがあったことでしょう。ただ、李英和さんは、それらを我々を奮い立たせる材料に使っても決して泣き言を言ったりはしませんでした。その姿に、我々も鼓舞されたことは間違いありません。ただ、浅はかというか、僕自身がそういった攻撃の的に挙げられることは、覚悟はしていまたが、実際に経験してみると消耗もするし、挫けそうになる

■朝鮮総連という名のコミュニティー
 朝鮮総連は公私にわたってRENKをつぶそうとするのですが、その中でもっともイヤな思いをして辛かったのは、身内を使って攻撃してくることでした。例えば、法事などの行事があったりすると、総聯系の親戚から「お前は、最近RENKとかいう変なことやってるみたいやなあ」などと嫌みを言われる。また、行きたいとは思いませんが朝鮮学校の同窓会などに呼ばれない。留学生同盟の名簿から完全にはずされる等々。いわゆる村八分ですよね。
 その時に初めて、「あぁなるほどなあ~今まで在日朝鮮人、総連の中で、北朝鮮を批判するような動きが出てこなかったのは、こういうことが理由なんだ」と思いました。朝鮮総連に所属している在日朝鮮人のすべてが、北朝鮮に対して無条件に支持しているわけではありません。むしろ朝鮮総連に所属している在日朝鮮人が、北朝鮮の惨状を一番知っていたはずなんです。なぜなら彼らは、北朝鮮に行ってるから…。私もそうですけど、親戚がいるから、親戚を通じて少なからず惨状を知っている。でもそれを、敢えて口には出さなかった。それは、朝鮮総連や北朝鮮を批判する事によって自分が育ってきた、そして今も属している「朝鮮総連というコミニティー」からはじき出されることを恐れたからなんです。朝鮮総連に所属しているほとんどの方が幼稚園から高校、そして大学、さらに就職までなんらかの形で朝鮮総連に関係し続けます。そのコミュニティーから出た自分の人生を経験したことがないから、そこからはじき出されることをすごく恐れるのです。
 僕自身はRENKに参加することからあらかじめそういった事は想定内でしたが、やはり自分で経験すると辛いものがありました。本当にこのまま行ったら、自分の朝鮮学校時代の友だちとか、親戚とかも含めて、すべて敵に回してしまうんじゃないかと。

そうしているその間にも、北朝鮮の実情というのは、どんどん、どんどん耳に入ってくるわけです。飢餓まで起きるんじゃないかというような、信頼度の高い情報が入ってくる中で、やっぱり「これは何とかせなあかん」と再度決意して、RENKの運動に身を投じました。
ただ、その中で自分でも思いもよらなかった事を経験したのですが、その事を少しだけ話をさせてもらいます。

■恐怖の集会妨害
1994年4月15日にRENKは大きな集会をしました。4月15日といえば、皆さんご存知の通り、故金日成さんの誕生日です。集会はアピオ大阪という集会所で行われました。その集会に対して朝鮮総連は数百人という人間を動員して、集会の妨害をしたのです。

それまでに、僕は入管闘争とか新左翼の運動をする中で、機動隊とぶつかる経験があったので、一般の人よりはそれなりの修羅場はくぐってきたつもりだったし、たくさんの人間と対峙して、怖いなという思いをすることはあまりありませんでした。でも、その時は心底恐怖を感じたんです。人間の数とかそういう問題ではない。自分が学校時代に学んだ後輩、先輩、同級生、大学時代に、それこそ半年位前まで一緒に酒を飲んで、ワイワイ騒いでいた先輩、そういった人たちが気が狂ったように、わずか10数人の我々に対して罵倒し、時には暴力を使って攻撃してくるんです。最初はまだ大人しかったのですが、彼らはたぶん、「少し脅せば奴らは怖気づいて、尻尾を巻いて逃げる」と思ったんでしょう。しかし、RENKの結成以来、それなりに修羅場をくぐって来た我々もそんな簡単にひるまない。そのうちエスカレートして、集会する予定だった会議室では何もできなくなって、会場前の公園で急遽集会を続行!となりました。そこでも、小競り合いは続きました。テレビクルーとか、映像ジャーナリストの人たちもたくさん来てましたが、朝鮮総連は彼らに対しても「映すな、撮るな」っていう感じで、ヤクザみたいに振る舞っていました。トラメガを使ってスローガンを叫ぼうとすると襲いかかってトラメガを奪おうとしたりデモをしようとすると、周りを囲んで動く事ができないようにしたりと・・・・。しまいには代表の李英和さんを糾弾するぞ!とかいうような垂れ幕を掲げたり・・・。
多勢に無勢で集会はズタズタにされましたが、せめてデモをして我々の固い意志を訴えようと、RENK、朝鮮総連、機動隊がゴチャゴチャになったまま、50mくらいデモをしました。後に僕らは1968年、日大ではじめて日大生が学内でデモをし「偉大なる200メートルデモ」と呼んだことに、かこつけて「偉大なる勝利RENK森之宮50mデモ」(笑)とか言ってましたが・・・。

■必要不可避だった刑事告訴
その後に、その件を巡って、朝鮮総連を刑事告訴するんです。なぜ刑事告訴したかということに関しては、賛否両論あると思います。刑事告訴をした私を含め、他のメンバーもかなり悩みました。まず、何で我々がそこまでしなければならなかったか? というと、彼らが、単に集会を妨害するだけでなくて、金品を強奪してしまったということが一つ。これはやっぱり許せないと。いくらその主義、主張を言おうと、そういう強奪行為を許してしまったら、彼らは、我々だけでなく誰に対しても同じことをするだろう、ということが二つ目の理由です。 朝鮮総連は後にRENKの集会をつぶしたのは朝鮮総連とはまったく関係なく在日朝鮮人がいかって抗議したのだと言ってます。しかし、現場にいたほとんどが朝鮮青年同盟の動員で来たことは明らかだし、実際にビデオなど見ると興奮した男性は「我々朝鮮総連がやってきたことを否定するのか!」などと叫んでいたりします。案の定朝鮮総連は、それ以降おとなしくなりました。我々に対しては、「基本的」には何もしなくなりました。表立っての妨害とか、恐喝とか、恫喝はしなくなりました。

■ 結婚式の妨害までする朝鮮総連・・・
ただ、この事件の直後、僕自身の人生にも関わる重大な出来事が起こりました。集会からまもない5月に僕は結婚を控えていました。妻の両親は朝鮮総連の商工会でそれなりの地位を持った方だったんです。地道に事業を営まれて、周りの総聯の方々の信頼も厚い立派な方という評判で、僕自身尊敬している方です。その結婚式の直前に僕がRENKに参加していることが大問題となりました。後々聞いたところ朝鮮総連の中央から「今度埼玉で結婚する高某という人間は、RENKに関わっていて朝鮮総連をつぶそうというけしからん輩である。こういう輩の結婚式に出席するなどという事は許さん」と。さすがに僕もビックリしました。在日同士の結婚なんで当然、総聯に所属している方々もたくさん参加する予定でした。僕以上に妻の両親は頭を痛めたと思います。娘の結婚式がこんな形で泥を塗られるとは思いもよらなかったでしょう。その時に僕自身も自分の浅はかさに気づいたのも事実です。幸い結婚式は少々混乱したものの、事前に事情を知った方々が「いくら何でもそれはやりすぎだ」という事で、逆に協力的に盛り上げていただいたおかげで無事すみました。盛り上げていただいた方の中には北朝鮮でも高名な芸術家もおられ、そういった方が僕のすべてを知った上で、僕というより、妻や妻の両親のためにひとはだ脱いでいただいた事には心底頭が下がる思いです。本来なら、ここで改心しRENKの運動をきっぱりやめて、まっとうな(笑)人間に戻るのが人の道かもしれませんが、僕はそうは思いませんでした。「4・15RENK襲撃事件」と同じく、このまま僕がこういった脅しに屈すれば、また同じような被害者を産み出すだろう。こんな事を二度と起こさせないためにも、自分の信念を貫こうと思いました。たとえ、それで悪く言われようと必ず歴史が自分の正しさを証明してくれると。僕がそう信念を固められたのは、結婚した妻が理解を示してくれた事が大きいです。両親も、その後は僕の行動を見て見ぬふりをしてくれました。ただ、いずれにせよ北朝鮮を批判する事がこれほど犠牲を強いるものだという事を痛感したのは事実です。
ただ、それぐらいの嫌がらせを経験すると、友だちから連絡がないとか、あと留学生同盟とか、朝鮮学校の名簿から外されて同窓会のお呼びも来ないとか、そんな寂しさとかは大したことはなくなるし、逆に少々の事では動じないということで、嫌がらせも少なくなって気は楽になりました。(つづく)

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