川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「なぜ絶望することがあるでしょうか?」 アンネの言葉(下)

2012-12-30 10:06:59 | 政治・社会

12月30日(日)曇

原発維持勢力は「電力の安定供給」をその理由に挙げていますが、どうもそれは表向きの理由のようです。原発推進に伴う巨大な利権を失いたくないという欲望と核兵器の保持への願望が本音と考えられます。民主党時代にも故障続きの核燃料再処理工場の建設続行にこだわり続けたのは本音がそこにあるからでしょう。原爆の製造に必要なプルトニウムを安定的に確保し続けたいのです。「維新」の石原慎太郎代表は時に本音を漏らして世論を誘導しています。

 核を保有する中国が北朝鮮をはじめアジア・アフリカの独裁政権の後ろ盾となって資源を確保し、新たな中華帝国圏が作られつつあるように見えます。建艦競争にも乗り出し、東アジア・東南アジアに覇権を打ち立てようとする動きも顕著です。「尖閣列島」を巡る緊張もそのような脈絡の中で捉えなければなりません。北朝鮮の独裁政権のやりたい放題も中国共産党がそれを許容しているからできることです。

 これに対抗して、日本では改憲・国防軍・核武装を主張する勢力が勢いを増してくることは火を見るよりも明らかです。今回の総選挙でその陣形がかなりはっきりしてきました。もし、来年の参議院選挙でも日本国民が同じような選択をすればこの勢いはとめられなくなるでしょう。

 石原・麻生・安倍などの人々にはそれぞれの役割があり、多少の路線の違いもありますが、渾然一体となって国論をリードしていく態勢が整ったのです。これに対して、「原発NO」「核武装NO」勢力は国民の多数を占めていながら、政治的力量に欠けています。

現在進行中の東アジアの危機にどう対応するのか、その戦略を提示して国民をリードする政治指導部がないといっていいのです。小さな違いで争って「敵」の攻撃に雲散霧消していく有様です。

 2012年の年の瀬に私たち「非核」(原発NO・原爆NO)勢力が考えなければならないのはこのような無惨な現実を認めて、自分たちの戦略を打ち立てることです。「9条を守れ」をお題目のように唱えていればいい時代は遠くに去ったのです。

アンネ・フランクは「戦争の責任は名もない一般の人にもある」と書いています。時代の勢いに流されるだけの大人たちを怒りをこめて見つめていたのでしょう。

生き延びていれば83歳です。どんな人になったのでしょう?

僕にはもう一人、83歳の「巳」の大先輩がいます。こちらは石原・安倍ラインに期待をかけておられるようです。許されるなら議論をさせてもらいたいと思っています。

前書きが長くなりました。「アンネの言葉」(2)(3)を再掲します。


 

アンネの言葉(2)絶望的な自問自答     2009-01-09 04:44:48 | 政治・社会

 
 前回と同様にぼくが授業で紹介してきた部分を書き写してみます。宜しかったら声に出して読んでみてください。アンネはまだ14歳です。


  1944年5月3日 水曜日

(略)

 <隠れ家>の私たちはしばしば絶望的にこう自問自答します。
「いったい、そう、いったい全体、戦争がなにになるのだろう。なぜ人間はお互い仲良く暮らせないのだろう。なんのためにこれだけの破壊がつづけられるのだろう。」

 こういう疑問を持つことは至極当然のことですけど、これまでのところ、だれもこれにたいする納得のゆく答えを見出していません。そもそもなぜ人間は、ますます大きな飛行機、ますます大型の爆弾を一方では作り出しながら、一方では復興のためのプレハブ住宅をつくったりするのでしょう?
 いったいどうして、毎日何百万という戦費を費やしながら、その一方では、医療施設とか芸術家とか、貧しい人たちとかのために使うお金がぜんぜんない、などということが起こりうるのでしょう?
 世界のどこかでは、食べ物が有り余って、腐らせているところさえあるというのに、どうして一方には、飢え死にしなくちゃならない人たちがいるのでしょう?
 いったいどうして人間は、こんなにも愚かなのでしょう?

 私は思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家だけにあるのではありません。そうなんです。責任は名もない一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら、世界中のひとびとはとうに立ち上がって、革命を起こしていたでしょうから。
 もともと人間には破壊本能が、殺戮の本能があります。殺したい、暴力を振るいたいという本能があります。ですから、全人類が一人の例外もなく心を入れ替えるまでは、決して戦争の絶えることはなく、それまでに築かれ、培われ、育まれてきたものは、ことごとくうち倒され、傷つけられ、破壊されて、すべては一から新規まき直しに始めなくちゃならないでしょう。


 アンネの自問自答は今も私たちに問いかけるものがあります。
 アンネはこう書いています。


 私は思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家だけにあるのではありません。そうなんです。責任は名もない一般の人たちにもあるのです。

 そして「全人類が一人の例外もなく心を入れ替えるまでは、決して戦争の絶えることはな」いとまでいっています。

 これを読まれた皆さんはどうおもわれますか?是非、御意見を聞かせてください。

 

 ぼくはおおむねアンネの考えに賛成です。ですから私たちの一人残らず全員が「戦争」や「差別 に向き合い「心を入れ替える」努力や闘いをしなければならないと考え、それを授業や日常活動の中心にすえてきたのです。

 第二次大戦による破壊と殺戮が極限にまで達したにもかかわらず、世界は再び三度、戦争の惨禍に見舞われています。パレスチナ・アフガン・イラク……。アンネの問いかけは無視され、人類は愚行のはてに滅んでいくのでしょうか。
 
 ぼくが今、もし、14・5歳だったら生きていく希望と勇気をもつことができるだろうか? そんなことを考えさせる年の初めです。
 

アンネの言葉(3)「なぜ絶望することがあるでしょうか?」

2009-01-10 06:19:14 | 政治・社会
 「アンネの日記」の続きです。今回はここまでとします。例によってぼくが書き写しますので、どうぞ、声に出して読んでみてください。


 1944年5月3日(水)
 (続き)

 これまで私はちょくちょく意気消沈することもありましたけど、決して絶望はしませんでした。この隠れ家生活を危険な冒険ではあっても、同時にロマンティックな、おもしろいものとさえみなしてきました。この日記の中でも、すべての不自由をユーモア混じりに描いてきたつもりです。今こそ私は、ほかの少女たちとは異なった生涯を送ってみせると心に決めました。ほかの少女とは異なる生き方をし、さらに大人になったなら、普通の主婦たちとは異なる生き方をしてみせる、と。スタートはこれまでのところ、じゅうぶん波瀾に満ちていましたし、どんなに危険なときにもそのなかに滑稽な一面をみつけ、それを笑わずにはいられないというのも、もっぱらそれだからなのです。

 私は若く、いまはまだ埋もれている多くの資質を備えています。若く、強く、そしていままさにおおいなる冒険を生きています。いまはまだその冒険のただなかにいるからには、一人で楽しむ以外に何もすることがないからといって、一日中愚痴ばかりこぼしているわけにはゆきません。
 私は多くのものを与えられています。明るい性質と、あふれるばかりの明朗さ、強さを持っています。日ごとに私は自分が精神的に成長してゆくのを感じます。解放が近づいているのを、自然がいかに美しいかを、周囲のひとたちがどんなに善良な人たちであるかを、この冒険がいかにおもしろく、興味の尽きないものであるかを感じています。だったら、なぜ絶望することがあるでしょうか?

 じゃあまた、アンネ・M・フランクより


 きらきらする豊かな個性の発露、自分の人生の主人公になろうとする強い意志……ぼくはこうゆう少女が好きです。実際のアンネは外面に現れるアンネと「ほんとうのアンネ」の分裂に悩みます。悩む少女の姿は愛おしく他人事ではないような気がします。

  1944年8月1日 (火曜日)の日記が最後です。こう結ばれています。
 
 (略)
 そしてなおも模索し続けるのです、わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるかを。きっとそうなれるはずなんです、もしも……この世に生きているのが私一人であったならば。
                じゃあまた、アンネ・M・フランクより

 

 ぼくは悔しくてなりません。可能性に満ちた魅力的な少女の人生の営みをナチは永遠に奪ったのです。
 今も世界のあちこちで「自分でありたい」と願い、悪戦苦闘する青春があります。その悪戦苦闘こそが人類の希望です。私たちはどんなことがあってもアンネと同じ運命を彼らに辿らせてはなりません。
 


 


 


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