心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
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時折読み返すと反省できる

2016年05月12日 | ほんのすこし
4月に人前で朗読をするという機会があった。30分ぐらいと言われ、どんな物を読んだらいいのかと悩んだ。そのときに出してきた本の中に『人間にとって成熟とは何か』という曾野綾子の本がある。何度か読み返していたのだが、そのとき改めて読んでみると、実に面白い。そして反省しきりだ。うんうんと頷くことがたくさんあり、これを読んだらどうかとも思った。だが、最終的に別のものを選んだ。
この本は手元に置いて、ちょくちょく開くことにした。

例えば第9話「自分さえよければいい」という思いが未熟な大人を作る」では、ほんとうに力のある人は威張らない、という。

(略)いつの時代にもなんだか理由なく威張る人というのは、ごく身近にいたのである。
 そしてそういう人に対して、私のように生理的に反発する性格の人と、むしろ何となくそういう人物に対する憧れを持つ人がいたのは事実である。
 おかしいのは、夫に社会的な地位ができると、その奥さんまで威張るケースというものが未だにあるということだ。(
略)

その後、この文章では夫が大臣だという女性がクラス会に出席したときのことを書いている。夫を警護している者に自分に対して雨降りに傘をすぐに差し出さないことを叱責していた場面。夫が大臣だというだけでその女性についている警護ではない、そのことに気づかない愚かさ。

そして最終的に述べているのが、次のようなことだ。

(略)つまり総じて威張る人というのは、弱い人なのだ。
(略)私は母から、最低限、威張らないことで、みっともない女性にならずにいる方法を習った。威張るという行為は、外界が語りかけて来るさまざまな本音をシャットアウトする行為である。
 しかし謙虚に、一人の人として誰とでも付き合うと、誰もが私にとって貴重な知識を教えてくれる。それが私を成熟した大人に導いてくれる。

こう第9話を結んでいる。

自分のこれまでに「威張る」という行為がなかっただろうか。反省の余地ありだ。
今は威張る材料もなければ威張る相手もいないが、もっと前には自分の立ち位置を間違えて周りの人に接していた頃があったように思う。憎らしく、浅ましい、そんな自分が過去に存在していたと思われる。過去は消せないから、これからの自分は「威張る」ことからかけ離れた存在でありたいものだ。


意味はあるのか

2016年05月12日 | ほんのすこし
部屋に雑然と置いてあるもの。
そのときどきのわたしにとっては必要としていたものなのかもしれないが。
今、このわたしにとってこれらが在ることにどんな意味があるというのか。
身につけるときの自分の姿を想像して手にしただろうが、今のわたしにはなんの意味もないような気がする。

そんな物がある。

そんな物に囲まれていると、物があったことすら忘れていることが多くなる。そして今必要なものがなんであるのかさえ考えようとしていないことに気づかないままだ。
愚かで反省の繰り返しをしていて、朝には一抹の不安を隠し、夕べには怠惰だった自分の時間を打ち消すかのように眠る。

愚かだ。全くもって愚かだ。

目の前にある物を今すぐ消し去りたい気持ちがむくむくと生まれてくる。それは自分というものの愚かさを打ち消したいがためにすぎない。

あぁ、早朝眠りの中であれこれと考えていたことで眠れずに起き出したのに、そのどれもせずにただぶらぶらと時間を費やしてしまったことが、今日という人生のたった一日の何時間かを無駄に費やしてしまったことが、悔やまれてならない。どうしたというのだろう。ここ数日、わたしはふぬけ状態から抜け出せずにいる。やろうと思ったことの一つも手がけることができず、ただただ後悔の念で一日を終えている。

まぁ、そんな日もあるさ、そう言い切ってしまえるだけの潔さがない。
わたしに残された時間はあとどのくらいあるといえるのだろう。わかっていたらこんなぐうたらな生活をしないだろうか。いや、弱いからその辛さから逃れるためにますますぐうたらに溺れてしまうかもしれない。

まずは今のわたしに意味のないものを消していくことにするか。

今日は反省から始まった。
まだ一日の時間は残っている。今からでも遅くない。そう思ってここにやってきた。

始めよう。考えていたことに手をつけよう。そうだ、始めなければ進まないのだ。