心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
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下弦の月

2016年05月14日 | ほんのすこし
温泉の大きな窓から見える空に、ぽっかりと白く見えた下弦の月。
写したいけど、温泉だからね(笑)。
青い空に真綿のような雲が薄く薄く広がっていて、その中で存在を雲と一緒にしておきたいかのように遠慮がちに、大きな窓の一角に見えた。
わたしは温泉の庭にあるベンチに行こうと思った。暑い空気から逃れて、ベンチに腰掛け、空を見上げる。そこに在るのは白い薄く伸びた雲と同化するようにして佇む下弦の月。
月の弧はハッキリとしているが、弦はおぼろげにあいまいな線を見せている。雲に溶けかけているとでも言おうか。そんな下弦の月がなんだかいとおしく見えた。肌が冷たく感じられるまで見入ってしまった。
日中にこんなにも月を見たことがあっただろうか。下弦の月よ。

今はどんよりした雲に覆われた空だ。
何も見えない。
それでも明るい時間の空にいた下弦の月の姿を思い起こすことはできる。
生来の姿は丸であっても、見る方向や季節によって姿形が変わって見えるという月の不思議さは、科学的な根拠云々よりも先に魔力というか、おかしがたい自然のすごさを感じる。
この月と共に地球が存在することへの畏怖。
わたしがここで月を見ることができることへの奇跡。

月の満ち欠けにわたしは期待する。
明日の自分はどうであるのかと。
月がもたらすものではないと分かっていても、見上げた空で何十億の昔からそこに燦然と佇んでいる姿があるということに何か意味があると、つい思ってしまうのだ。

下弦の月が雲に見え隠れする。
明日はわたしの前に出てくるだろうか。
暗い夜、孤独と共にあるのは月との語らい。
ひっそりと安らかに、ただ見つめるだけでわたしと月がいる、それだけで時間は色濃いものとなっていくように思える。

母の日の鉢植えは

2016年05月14日 | 母のこと
母の庭にはどちらかというと小さな花が多い。大きな花というのは、木蓮やテッセン程度の大きさで後は可愛らしい花が多いような気がする。
わたしはどちらかというと小さな花の方が好きなので、その点はふたりとも好みが同じだと思っている。
息子家族が連休に来たときに郊外にある「陽気な母さんの店」でお墓参りの花を買って行ったときがあった。あのときはとても風が強くて小雨も降っていて寒い日だった。往復1時間半はかかるお墓まで行くのだが、ちょっと寄り道してその店に行ったのだった。ずいぶん久しぶりに行ったお店。前はよく通っていたが、今は町中にあるJA主催の旬菜館が行きつけになってしまった。
相変わらず観光客にも人気なのか駐車場は満杯だった。入り口近くに花を置いているコーナーがあって、お墓参り用に二束、そしてその隣に鉢植えが置いてあった。三種類の花をそれぞれの鉢に入れて大きな寄せ植えのように見せているものだった。定番の赤のカーネーションに小さな花が二種類。
母さんにあげたら喜ぶだろうなとつい手にした。母の日も近いし、今日はこれをお土産に買っていこう。

お墓参りがすみ、母のところにお土産を持っていった。もちろん、母の日用だということを告げて。
新しい広いキッチンは窓のスペースが広くて綺麗だ。そこに置いた。赤が映える。満足そうな母の顔があった。たっぷり水やりした。
次の日、鉢は窓辺から下の調理台(これも広い)の上に降りていた。背の低い母がこれを下ろすには大変だったろうなと思った。水をやるのに不便だというのだ。
「やっぱり土に植えた方が花にはいいだろうね」というので、庭に運んだ。
雨降りだったので、しばらくそのままだったが、それでも雨に当たって喜んでいるよ、と母は言っていた。

それから数日後、天気が回復した頃お昼過ぎに行くと、母が横になっている。ははあん、何かやったなあって思いながら、
「今日は何したの?」と聞いた。
「庭にいた」と答えた。
また庭を見ていたんだろうと思った。母はよく庭に行って、愛用の腰掛けに座って庭を見たり、痛い手で草むしりしているのだ。それもわたしが行く前に。わたしがいると注意されるから来る前にやってしまおうという気持ちなのだろう。後で痛みが出るのは承知の助なのだ。

家の中の片付けはまだ途中で、毎日あちこち母の指示のもとやっている。その日は縁側にソファを置く指令が出された。縁側に置いている棚を別の部屋へ観葉植物は玄関や庭へ寄せて、そこにソファを移動する。母のベッド脇にラジオやCDを置いているラックを移動する。移動するついでに絨毯のずれを直し掃除。障子も二枚はずして窓際の奥にしまいこんだ。
わたしがすることを見て、自分が何もできないことを嘆きつつ、見ている間にどこかしら力が入るのだろう。これら一連の作業が終わるとわたしよりも母の方が
「あ~、なんか疲れた。冷蔵庫からあれ取ってくれないか。おまえも飲まないか」と言った。
笑って
「わたしはいいよ。母さんが飲めば?」そう言ってキャップをねじってリポビタンを渡した。
「頑張ったおまえが飲まないで、見てるだけのわたしが飲むというのも何だけどねぇ」

いやいや、見ているのも大変なのよ。思ったようにわたしが動かないと内心気が気でないものね。

そんな感じで指令は無事終了。
帰りがけに玄関まで送ってきた母が庭を指さし
「あれ、やったよ」と。何のことかとみれば、庭の一角に例の鉢植えの三種類の花がそれぞれ並んで土に植えかえられていた。鉢に入っていたときより心なしか元気があって勢いがあるようだ。花も嬉しいのだろうな。
「なんでぇ、わたしに言えばいいのに。やっちゃったの?」というと
「1時間以上もかかってしまったよ」と答えた。ははあん、やっぱり。
「ちょっとやって空を見たり、あちこち見たり、またちょっとやってって、したら1時間以上も経っていて、おまえが来たときちょうど終わって休んでいたところだったんだよ」

お疲れさまでした♪
それでもやりたかったことをやったからなのか、どや顔(笑)でしたとさ♪
あっ画像はカーネーションではなく以前から母の庭にあった小さな花たちです。