(国宝毛抜形太刀)
日本刀の歴史的な変遷においては、古代
期の上代の横刀(たち)から湾刀である
太刀(たち)に移行した過程が存在した。
太刀初期には斬撃の際の衝撃緩衝のためか
柄部分が中抜きされた毛抜形太刀が作られ
た。
ナイフでいうならばフルタングである。
それがやがて、柄を作ってそこにナカゴ
をきつく挿し込む形式に日本刀は変化し
た。
(国宝)
いわば、フルタングからコンシールドの
ナロータングに変化したのだ。
これはどうしてだろう。
ナイフの場合、激しい衝撃を与える場合に
はナロータングよりもフルタングのほうが
丈夫だ。柄にコンシールドされたタング=
ナカゴのタイプだと、ハードな使用を続け
ているとやがてハンドルにガタが出てきて
しまうのはナイフ界の常識だ。
そのため、バトニングなどではフルタング
が一番信頼性が高いのは、物理的な事実と
なっている。
かたや、日本刀のほうはどうだろう。
実用刃物であるナイフ界の常識からすると
「退化」とも捉えられかねない変化を見せ
ている。
だが、平安末期に登場した柄拵は、一千年
以上の時を経て、現代でもその基本構造に
変化はない。
つまり、ナカゴという部分の構成と柄との
セットは「完成されている」のである。
ただし、目釘穴の位置と数は実用時代に
おいて変遷がみられる。
柄頭側にあった目釘穴が段々と上に移行
し、凡そ刃区(はまち)から指3本分下部に
移動してからそこで定まったのは、これ
は明らかに何らかの実用的なバトルタイム
プルーフを得ての往時の製作者の知見によ
るものだろう。
また、さらに実用信頼性を付与させるため
には目釘を2本打つための「控え目釘」を
柄頭側に設けることも戦国時代に始まって
いる。目釘1本で斬撃を続けると柄が緩んで
くるからだ。2本目釘のほうが実用的である
ことは論を俟たない。
日本刀はナイフとは別な、いわば逆の発想
でハンドル=柄周りの発想が発生して変化
を遂げている。
思うに、その設計思想は、毛抜形太刀に
ヒントがあるように思える。
つまり、斬撃の際の衝撃を緩衝させるため
にあえて木製の柄を導入するに至ったので
はなかろうか、と。
柄仕様の太刀の初期はナイフのフルタング
ハンドルのように埋め込み式だったが、
やがて本格的なナロータングでコンシール
ドする「柄」が登場し、それが不動の定番
となって一千年の幾星霜を駆け抜けている
のが日本刀だ。
柄は使い捨てだったのではなかろうか。
極言すれば、刀剣自体が実用性においては
使い捨てだ。イクサの一回もてばよい。
このことは軍陣に刀工を引き連れて参戦し
た武将が多かったことからも首肯できる。
現在残っている古刀名刀の多くは、戦乱
を「生き残った」個体か、「使われなかっ
た」個体であることだろう。
日本刀における柄の効用としては、対衝撃
性の側面ともう一つ重要な「操作性」の
向上が導入された事は想像に難くない。
また、別拵えの別注品にすれば、使用者
の好みに合わせた握りを実現できる。
日本刀の拵=外装品というものは、戦国
時代の足軽や徒士への供給刀=押し着せ
の常備刀以外は、すべてオーダーメイド
だった。吊るしの背広のような形式は
基本的には日本刀には新作刀身において
も、既存刀身においてもあまり存在しな
かった。すべて自分に合わせて外装を
新たに誂えるのだった。
柄については、そうした実用様式が日本刀
では重視されたゆえ、ナイフにおける実用
主義とは別な価値観が日本刀には付与され
ていたので、ナイフとは異なる握る部分の
の発展遷移がみられたのではなかろうか。
ナイフと日本刀。
同じ刃物でも、実用性一つとっても、
その歴史的な位相が異なるといえる。
フルタングのナイフ。
フルタングの範疇のうち、ハンドルエンド
=柄頭方向のナカゴ部分を薄くして重量
バランスを取る構造。
このテーパードタングはラブレスが多用
してナイフの世界に革命をもたらした。
彼が偉大だったのは、デザイン形状を何度
でも再現できる「型」を導入した「システ
ム化」を成したことだった。
鍛造ナイフではない現代の型を定めての
削り出しによるストックアンドリムーバル
方式のナイフ製作はロバート・ラブレスが
確立した。
ナカゴの長さや尻の巾等については、日本
刀においても各地の流派で創意工夫がみら
れる。
末備前などは片手打ちが前提なのでナカゴ
は極端に短いが、頑丈さを付与させ、また
バランス取りの為に極端に尻の張ったいわ
ゆる「備前ナカゴ」の形になっている。
逆に相州物などはタナゴの腹のように先が
そほる物が多い。
意外と脇物と呼ばれる五ヶ伝以外の日本刀
は実用重視の環境からか、ナカゴにも創意
工夫が見られたりする。
ナカゴ千両とはよくいったもので、日本刀
はナカゴの形状や仕立てにその流派の特徴
がよく顕れる。日本刀の見所の一つにも
なっている。
フルタングに近いテーパードタング。
石川刃物の製作でかなり使い勝手が良い。
石川刃物は岐阜の関にある。
関は今でも日本一の刃物の町だ。
日本刀の古刀五ヶ伝の最後の産地、美濃伝
の中心地が関だ。
美濃伝は日本刀に大革命を起こした。
それは備前伝に端緒を発した「鋼材作り
置き工法」を採用したことだ。
これは鋼の玉潰しからそのまま作刀する
のではなく、現代の板材のように炭素量
ごとに水べしして板状にした材料を大量に
ストックして従来とは生産性を比べ物に
ならない程に向上させたことだ。
その板材を鍛着鍛造すればいつでも即大量
に刀剣を製造できた。それで時代が要求
した膨大な刀剣需要に応えきった。
これは従来の日本刀製作の手間暇かける
非生産的な手法を根本からひっくり返し
たことで、まさに革命的だった。
組み合わせ鍛造においては、貴重な高炭素
の鋼は外皮だけに使う「まくり」や「甲伏
せ(かぶせ/後年にはこうぶせと読ませ
た)」、あるいは刃先だけ鋼を割り込ませ
た「割り込み」という構造にすればよい。
実用性では何ら全鋼の真鍛え=丸鍛え
と遜色ないどころか、鍛え方によっては
無垢鍛えを上回る頑丈さも与えることが
できた。
(それが後には、無垢鍛えよりも部分的に
手間がかかるため、組み合わせ工法の
ほうが本鍛えであると誤認されるように
なる)
この備前と美濃の量産数打ち工法は日本刀
の作り方を抜本的に改変した。
慶長以降の日本刀を「新刀」と呼ぶが、
新刀において美濃伝の影響を受けていない
刀工はほぼいない。
本来は備前が江戸期の日本刀も牽引する
筈だっただろう。
だが、備前長船千軒鍛冶は天正の未曾有の
大洪水で三名のみを残して壊滅してしまっ
たのだ。歴史的な悲劇だった。
長船も福岡も備前鍛冶の中心地は無くなっ
た。
備前鍛冶とも技術的に密接な関係にあった
備中備後の吉備国の刀鍛冶たちは、天正
以降も作刀を続けるが、江戸の平和な新
時代が到来して以降、伝説が一人歩きして
武士に人気を博した遠い昔の相州伝を備中
水田鍛冶が「ウケ」を狙ってその作風に改
変を試みる等の混迷と苦労も歴史の中に
見て取れる。
新刀初期の備中水田国重などは新刀期に
無垢鍛えを復活させた名人だったが、
幕末には水心子によって不当なネガキャン
が張られたりもした。
江戸期には備後刀の雄であった三原鍛冶も
尾道から新設の三原城や福山城の城内に
抱えられる形で細々と作刀するように
なった。刀剣は刀剣産地から城下へ全国的
に移行した。
そして、日本全国から、新作刀の発注が
全く数十年途絶える時期が到来する。
ここに至って、日本刀の製作方法は完全
に失伝した。
現代における日本刀の製造方法は、失伝
した日本刀の製造方法を手探りで研究
再現した水心子正秀の工法を模倣している。
明治以降の現代刀鍛冶の系譜は、師匠筋
を辿るとすべて水心子に行き着く。
それは一つの歴史の真実を物語る。
日本刀は江戸期に製法を失伝していたの
だ。
日本刀の復興の中興の祖は水心子正秀
であり、現代に続くナイフの盤石の基礎
を創ったのはボブ・ラブレスである。
上:古刀 下:新刀

右:古刀のナカゴ
左:新刀のナカゴ

右:古刀(戦国時代末期)
左:新刀(江戸期延宝頃)
