鋼というのはですね、自然界に
は存在しないんですよ。
鋼は人間が作り出した。
鉄を作ったのも人間ですが、鋼
こそは人間が無理やり作り出し
た金属だ。
鋼が今金属として存在している
のは、あくまで仮の姿なのよ
ね。
特に、加熱急冷によって鋼の
内部組織を人間が強引に変化
させて得た硬いマルテンサイ
トという状態は人間が作り出
した状態なので、放っておく
と時間と共にどんどん元の自
然の状態に戻ろうとする。
鋼は生き物なので、肉眼では
見えないが、金属内部では常
に動きがあり、マルテンサイ
トはどんどん元の状態に戻ろ
うとしている。
オーステナイトという元素の
固溶抱き込みの姿は温度に
よって変化する。
立方格子を構成していた強磁
性の性質が、ある特定の温度
に加熱されると面心立方格
子に瞬時に変化(変態)して
非磁性となる。
そこから一定の温度に急冷す
ると、今度は炭素を中に固溶
させた体心立方格子に変化す
る。これがマルテンサイトだ。
金属内部で組織の積み木のパ
ターンが変わるので、焼き入
れにおいては金属は伸びたり
縮んだりを繰り返す。
日本刀などの場合は、刀身の
刃部が先に変態を開始するの
で、一度俯くように刀身がコ
ンニチハしてから、そこから
一気に背側に反り返る。
これは金属内部で熱処理変態
によって体積に変化がめぐる
ましく起きるからだ。
マルテンサイト変態は特定温
度に金属が冷却された頃に
開始し、さらに低い特定
温度で再度変態が進む。
しかし、一度きりの焼き入れ
では、金属は完全にマルテン
サイト化してはおらず、セメ
ンタイトというダイヤモンド
並みに硬い組織も部分的に固
溶させているので、非常に脆
くなる。
脆い金属は道具にはならない
ので、それを再度特定温度ま
で加熱させて、金属の中に残
留しているオーステナイト
を完全変態させてやり、同
時にパーライトという組織を
発生させてそれがいいように
金属内部でマルテンサイトと
残存オーステナイトと手を結
び粘りを出すようにしてやる。
これが焼き戻しだ。
焼き戻しは、炭素鋼の場合は
1回のみで済む場合もあるが、
鋼のうち多用な元素を含んで
いる特殊鋼の場合には、複数
回の焼き戻しを行って鋼の質
性を実用的な性質に変化させ
てやる必要がある。
ハイスピード鋼などは2度焼き
戻しは絶対条件であり、3度焼
き戻しすることもある。
ハイス鋼は、炭素鋼とは異な
り、焼き戻しにより二次硬化
が発生する。
そのため、焼き入れ直後が一番
硬いという炭素鋼の常識とは異
なり、焼き戻しによりさらに硬
度が増すという性質がある。
また、ステンレスをはじめ様々
な元素を
意図的に成分の中に入れられた
特殊鋼は、最良のその鋼材の性
質を得るために、焼き入れの
加熱保持時間が厳密に割り
出されており、さらに焼き戻
しの温度と保持時間も割り出さ
れて、それでないと適切な金属
とはならないようになっている。
特殊鋼は鍛冶場の炉での熱処理
は不可能ではないが、非常に困
難を伴う。
鍛冶場の炉で熱処理した特殊鋼
は、熱処理専門業者の大型窯で
処理した金属よりも確実に100
%劣るといえる。理由は適切
温度保持が鍛冶場の炉では出来
ないからだ。電気炉やガス炉を
持っているのならば、鍛冶場炉
でも可能かもしれない。
しかし、零下に急冷して残存オ
ーステナイトを適切に除去する
サブゼロ処理などは鍛冶屋はで
きない。
鍛冶屋はステンレス等の特殊鋼
を扱えないのである。鍛冶場で
特殊鋼を熱処理しても、「のよ
うなもの」しか作り出せない。
炭素鋼の刃物のうち、特に日本
人が得意とする刃物の「硬軟部
位の存在による堅牢性の確保」
という技法は、炭素鋼だか
ら可能になる。高炭素部分
の鋼のみ、あるいは全鋼で
あろうとも刃部のみを焼き
入れして硬化させる方法は
炭素鋼でないとできない。
また、この刃部のみ硬く他の部
分は柔らかいという構造は、対
衝撃性や折損防止にも役立って
いる。
炭素鋼の場合は、鍛造等による
内部粒子の結合具合により頑丈
さに違いが出る。
しかし、特殊鋼の場合、ほぼ全
ては丸焼きであり、刃先も背も
硬度は同じとなる。
日本刀に代表される炭素鋼の刃
物の内部は油絵の絵具のように
複雑に入り混じって組織が結合
されているが、特殊鋼はまるで
浮世絵の色のようにノペッと単
色であると説明すれば分かり易
いだろうか。
炭素鋼は、炭素の偏在により
熱処理を経ると描かれた油
絵作品の絵具状態のように
「肌」が現れる。
これは折り返し鍛錬による鍛
え肌とも異なる熱処理による
まだら模様の油絵絵具状態の
肌のキメとして現れる。
大抵はこすり研ぎで表面をヤ
スリ状にしてしまっているの
でその肌目は見られないのだ
が、その鋼の素顔の肌を起こ
す研ぎを施すと鋼は本当の
姿を見せる。
たとえば、全鋼の安い600円程
の肥後守でも、日本刀研磨に
準じた研ぎを行えばこのよう
に鋼の熱処理変態の素顔=働き
を見ることができる。(研ぎ、私)
これは地鉄を外に抱かない合
わせ鋼の利器材ではない全鋼
だからよく出せる。
肥後守は鋼を割り込みして板
材で製造した物のほうが高価
だが、鋼の妙を見た目にも楽
しむのはSK材だろうと全鋼の
物のほうが研ぎに応えるので
面白い。
製品の販売金額は、鋼自体を
楽しむことには比例していな
い。
この全鋼の肥後守はめちゃく
ちゃ切れる。
こちらは本物の日本刀だ。
江戸時代初期。備中国水田住
大月伝七郎源国重の作品。
全鋼の無垢真鍛えの作だ。
こちらは、日本刀なので研ぎ
はさすがに本職の日本刀研磨
師が研磨してくれた。
研ぎは鎌倉の田村慧先生。
鋼というのは面白い。
特に炭素鋼は欠け易く錆び易い
が、その切れ味と何よりも鋼の
素顔の妙がある。
一方、特殊鋼は実用一点張りだ
が、こちらは現代の人間社会
には欠かせない。
特殊鋼が存在するから各種工具
や旋盤の刃やドリルが存在で
きている。特殊鋼は人間社
会に欠かせない物だ。
炭素鋼も特殊鋼も鋼である。
用途目的により使い分ければ
よいだけで、どちらかが優れ
ていてどちらかが劣っている
という図式は成立しない。
どちらも同じ鋼。
鋼は人の世をよりよくすること
に役立っている。
私はとても好きな金属だ。