(PC/クリックで拡大)
海の上に三原城が築城されて
城下町ができる以前、現在の
三原城跡も市街地も全て海の
上だった。
旧古往還道はこのようなルー
トだったか。
たぶん獣道のような通路だっ
ただろう。
古代山陽道はこの画像よりも
さらに北の内陸部を通ってお
り、まさに山中の道路だった。
律令制時代には現代距離で約
16乃至20kmごとに駅家(うま
や)が置かれ、全国からの徴用
物資を運ぶための馬が20疋程
常備されていた。
三原市内市街地西端の近江堂
にある説明によると、築城以
前の東西の往来は上掲のよう
なルート(推定)を通行者は通
ったと思われる。
ただ、伝承はたぶんに創作も
多いので、俄かには措信しが
たい。
しかし、民俗伝承譚は何かし
らのいきさつがあるだろうと
類推できるケースも多く、民
俗学的には無視もできない。
旧古往還道については、鎌
倉幕府成立前後の鎌倉付近
を調査研究するのが非常に
面白い。
古代は既に過ぎて中世の時
代に入るが。
ただ、律令制時代の頃の国
内の道路整備との絡みで中
世を紐解くのもかなり面白
い。鎌倉切り通しのあたり
とか。
刀剣史でいえば、よく由比
ヶ浜近辺の浜砂鉄を鎌倉幕
府時代の刀剣製作では使用
したと巷間人口に膾炙され
ているが、これも確定的な
物証は無い。
古代製鉄からの連面性を考
古学や文献史学の面だけで
なく民俗学や地学、植物学
等の世界での研究成果と刀
剣研究が合体しないと解明
はできない。
刀は刀だけ観ていては刀が
見えない。木を観て森を見
ないのと等しく。
ただ、学術界というのは、
各分野で鉄柵を設けて個別
自分らの分野だけに固執す
る傾向があるので、なかな
か円滑かつ科学的な研究成
果が結実しない、という現
実がある。
まことに残念至極に御座候。
刀剣界、冶金界で現在も解
明されていない事案として
「三原鉄」という物がある。
鉄自体は残存している。
だが、その産地が全く特定
されていないのだ。
どこの三原なのかさえも。
現在の三原市内に三原城築
城以前に鋳物師(いもじ)が
いた事は確実で(山中谷あい
に住し「大工」として釣鐘
を鋳造、現存)、それらと
刃物用の鐵の生産との関連
も推測できるが、学術的に
は三原鉄の産地が現広島県
三原の地であるかどうかは
一切明らかになっていない。
なお、「三原」という土地
は広島県だけでなく全国各
地に存在する。
現在の三原市の地名の由来
が「三つの原が集まった土
地」とするのは行政も説明
しているが、それは物理的
にはあり得ない。
上掲画像を見てもらえば即
判るが、山中村の東の原、
駒ケ原、西野原が合体する
のは戦国末期の築城以降だ。
よくいわれる「三原」という
のは現在の三原市の事では
ない。これは確定的だ。
まだ無い時代、到来してな
い状況を後世にあたかも従前
よりあったかのように作るの
は、それは捏造だ。
「三原」という地名の場所が
三原城築城以前にあったとし
たら、それは現在の広島県
三原(城周辺)の事ではない。
原三原がどこかにあったか、
あるいはまったく別の土地
だ。
刀剣界でよく常識のように
言われている大嘘に「鎌倉
南北朝時代の刀工正家は
三原の地で鍛刀したので
それが三原物と呼ばれるよ
うになった」というものが
ある。
海の上でどうやって刀を作
るのか。
これなども後世の後付け嘘
情報の付与と捏造でしかな
い。「東京湾のお台場で
徳川家康が云々」とか言う
のと全く同じ類だからだ。
木を観て森を見ないやり方
だとそうなってしまう。
そもそも、広島県三原の地に
訪れたり地元の歴史を地質
学的にも調べた事のない人
たちが刀剣界を牛耳ってい
たので、そういう齟齬、誤
謬があたかも真実であるか
のように蔓延してしまった。
常識的に考えればすぐにそ
れは事実とは異なる事が判
るのに。
初代~数代の備州正家の鍛
刀地は現在の広島県三原で
はない。
これは推測(根拠あっての)だ
が、多分尾道が初代正家の
鍛刀地だろう。
二代目は因島での鍛刀の伝
承譚も存在する。
いずれにしろ、三原市ではな
く尾道市だ。
ただ、刀工からのちに鍔工に
なった五阿弥の子孫が尾道市
内に勝手に「日本刀発祥の地」
のオブジェを建て、また石碑
も立てて「天平年間の刀鍛冶
正家の子孫」としているのは
大捏造も甚だしく、尾道市の
行政側も「学術的根拠は一切
無い」として公的に説明して
いる。
事実は、広島藩の記録による
と、江戸末期に五阿弥の当主
が呼び出されて来歴を質され
た。
するとその時の当主は「三代
前以前は全くわかりません」
と正直に答えているのが記録
に残っている。
「そのほう、尋ねるが」と
藩の役人の詮議に始まり、五
阿弥は「はは~」とひれ伏す
状況だっただろう。
今では「歴史的名家であり、
尾道の町を肩で風切って歩
いていた」と自家の自慢を
ネットサイトで展開してい
る。天平の奈良時代などは、
刀剣(直刀)はすべて官製
であり、銘さえも切らぬの
さえも無視して大言壮語を
繰り広げている。
現在のような大捏造で自家の
来歴を誇大妄想のように大嘘
を告げたならば、江戸期なら
ば確実に首が飛んだ事だろう。
まして市中に勝手に自家こそ
が日本刀発祥の始祖というオ
ブジェまで建立してしまうに
至っては。
もしかすると、磔獄門になっ
ていたかも知れない。
嘘はいけない。いつの時代も。
ただ、江戸期、広島藩浅野家
においては、刀工正家の鍛刀
地についてはかなり調査をし
た。
だが、結論的には鍛刀地不明、
という結果だった。
極めて正しい公正妥当な結論
づけをしたと思う。
「ここがその場所、天下の刀
はここで作られた」とする手
前味噌の我田引水は排除して
いるからだ。
これは広島藩主浅野殿の采配
に拍手を送りたい。
江戸期、嘘をつくかどうかは
武士にとっては命が落ちるか
どうか、命をかけるかどうか
の問題だったからだ。虚言を
弄するかどうかは殺し合いに
発展するのが武士という種族
だった。
武士にも外道はいるにはいた
が、松の廊下の殿中での刃傷
の一件を浅野分家の内匠頭殿
が実行したのも、天下の御政
道御法度を冒してでも武士の
一分を遂げる為のものだった
し、その原因を作った上野介
の首級を挙げた赤穂浅野家中
も武士の一分を貫いた。
武士とはそういうものだ。
武士以外は嘘っぺだろうと世
間ではお構いなしだった。
広島藩浅野家ならびに浅野家
中の家臣は、この刀剣探査の
一件に関しては武士を通した。